ドイツ北西部の小邦。由来となっているのはラウレンブルク伯が12世紀前半に築いた城の名前で、その子孫がナッサウ伯を名乗るようになった。1255年、ナッサウは、オットー系とヴァルラム系の主要な二つの家系に分かれ、オットー系の方からはウィレム沈黙公(オラニエ=ナッサウ家の祖)が登場して、オランダ独立戦争で活躍。代々オラニエ公を世襲するようになり、沈黙公の曾孫ウィレム3世はイングランド王となる。ヴァルラム系は分家に細分化されるものの、1292年から1298年までドイツ王アドルフを輩出している。
三十年戦争をスウェーデン側で戦ったナッサウ伯国は、1635年に一時領土を追われていたが、1648年のウェストファリア条約で復活。このときナッサウ=ジーゲン伯、ナッサウ=ヴァイルブルク伯、ナッサウ=ディレンブルク伯、ナッサウ=ハダマル伯、ナッサウ=イドシュタイン伯、ナッサウ=ユージンゲン伯の6つに分裂した。18世紀になるとナッサウの各家ではそれぞれ”公”を称するようになるが、1706年にナッサウ=ジーゲンでは宗教反乱が起き、この家系は断絶後に1734年にナッサウ=ディレンブルクに併呑された。ナッサウ=ザールブリュッケン=ユージンゲンは、1728年にヴィースバーデン、1744年にビープリッヒを行政府とした。各々分裂と消滅、吸収を繰り返したが、18世紀後半になると、ナッサウ=ディレンブルク伯国、ナッサウ=ヴァイルブルク伯国、ナッサウ=ユージンゲン伯国の三つにほぼまとまりつつあったが、七年戦争中の1760年にナッサウ=ディレンブルクが消滅。これを相続したのが、1702年にウィレム3世が世継ぎなく亡くなったオラニエ=ナッサウ家を継いだ縁戚のナッサウ=ディーツ家のヤン=ウィレム=フリーゾで、彼はナッサウ=ディレンブルクの領地を併呑して、その息子ウィレム4世は1748年にネーデルランド総督となっていた。
革命が到来しても、ナッサウは未だ統一されることがなかった。ナッサウ=ユージンゲンとナッサウ=ヴァイルブルクは革命戦争で、ライン左岸の土地をすべて失ったが、1801年にリュネヴィル条約で代替地を手にする。両国はナポレオンの下で1806年に統合されてナッサウ公国に昇格し、ライン同盟に加盟。このときナッサウ=ヴァイルブルク家のフリードリヒ・ヴィルヘルムがナッサウ公子となり、ナッサウ=ユージンゲン家のフリードリヒ・アウグストがナッサウ公爵となった。しかしオラニエ=ナッサウ家のウィレム5世は加盟を拒否したため、ナッサウでの相続権とネーデルランドでの権利の両方を失って追放された。ナッサウ公国はヴィースバーデンを主都とし、オラニエ=ナッサウ家の所領を少しベルク大公国に譲渡した。
ライプチヒ会戦後にナッサウも同盟軍側に寝返り、ウィーン会議ではやや領土を失ったが、ナポレオンの失脚後も存続。1815年にフリードリヒ・アウグストは子を残さずに断絶し、完全にナッサウ=ヴァイルブルク一本に統合され、フリードリヒ・ヴィルヘルムの息子が1816年にナッサウ公爵ヴィルヘルムとなる。さらにその次のアドルフは普墺戦争ではオーストリア側で戦って敗北。領土は元ヘッセン選帝候国と併合されてプロシアのヘッセ=ナッサウ州となり、この1866年にナッサウは消滅した。しかしアドルフの子孫が1890年にルクセンブルク大公国を相続して現在に至っている。
(花形帽章:黒)
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縦射 [ enfilade / enfiler ]
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戦術的用語。縦長い標的に対して平行に射撃する場合は、標的に奥行きがあるために照準は容易で、正確に距離が定められていなくても標的のどこかに当たる公算が高い。当時の照準作業で仰角(あるいは俯角)を調整するのが一番難しかったので、標的となる敵が縦に貫かれるような状態を露呈していることは、攻撃側からみて非常に有利だった。このような不利な状態の敵を銃撃あるいは砲撃することを縦射という。
さらに帆船での海戦の場合は、砲門の位置が前後にないために、標的の前方あるは後方で船の側面を向けた状態にすると、敵から砲撃を受けずに、片舷斉射を行えるという利点があった。また球形弾は甲板の上を跳ね回るために二次的被害も甚大で、最高の攻撃位置となる。ネルソン・タッチやT字戦法など、すべてはこの理想的位置を確保しようというアプローチである。
地上部隊の場合、この時代の歩兵隊(あるいは騎兵隊も)は通常は横列であるので注意が必要である。つまり縦射は部隊の側面から攻撃された時に起こりうる。行軍隊形など隊列が縦列の場合には、例外的に正面(あるいは背面)から攻撃した場合に縦射となるが、基本的に地上戦の縦射は側面攻撃のことである。
民兵あるいは現在の州兵の相当する。もともとは自前で武装を調達できるブルジョワ層の子弟を中心にして編成されたブルジョワ市民軍で、革命が勃発した直後のパリで事態の沈静化のために組織された。初代司令官はラファイエット侯爵で、二代目はマンダ侯爵だったが、8月10日の革命の際にマンダは殺され、樽屋のサンテールが司令官に推挙された。この頃から国民衛兵隊にサン=キュロットが流入して急速に極左化。パリでは地区ごとに分かれて、過激な政治勢力と化した。その後、対外戦争の勃発によって全国各地の地方議会でも必要に応じて国民衛兵隊が組織され、通常は正規軍とは別の編成であったが、1793年にさらに内乱が勃発したために、兵力不足を補うために正規軍に編入されることもしばしばだった。恐怖政治期になると、政争を勝ち抜く武力的裏付けとしてパリの国民衛兵隊は重要度が増したが、賃金が支払われるようになってボランティア組織から準軍事組織へと変貌したために、逆に革命の推進力としての影響力を次第に失い、国家統制下におかれるようになった。テルミドール反動期にパリでは国民衛兵隊からの過激派の排除が行われ、再びブルジョワ市民軍となったが、ヴァンデミエール13日のクーデタ失敗で武装解除された。
後に重騎兵が不足すると胸甲騎兵の代わりに使用された。逆にプロシアでは胸甲騎兵の数が少なかったので、竜騎兵は重騎兵として扱われ、純粋に重騎兵の任務を勤めていた。オーストリアでも重騎兵に近い扱われ方をしていたが、定義がじつに曖昧であった。ロシアには強力な胸甲騎兵があったので、竜騎兵はそれよりも”軽い”扱われ方だったが、かといって軽騎兵よりも”重い”扱われ方だった。イギリスでは竜騎兵は前哨などの任務もつとめたが、重竜騎兵と軽竜騎兵の両方が存在した。
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滑腔式 [ Smoothbore ]
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銃身/砲身に施条(ライフリング)がないもの。古い前装式の火砲や、現代のショットガン、戦車砲などに見られる形式で、施条がないので弾丸には物理的な回転が加えられず、ジャイロ効果は得られない。(ただ現代では滑腔砲でも砲弾についた安定翼などで回転を加えるタイプもある)
弾道性能に劣るが、近距離ではあまり大きな問題にはならないので、射程の短いマスケット銃に特に支障はなかった。また清掃が容易で、遊隙を狭くする必要がないので、装填を楽に素早く出来るという特徴もある。同様の理由で、製造も簡単で特殊な技術・機材(旋盤など)を必要としない。それで第二次世界大戦ではゲリラやパルチザン向けに滑腔式銃身の手製ないし粗製銃が配布されたことがある。