瓶詰は、19世紀の初めにフランス人の菓子製造業者、ニコラ・アペールが発明した。
アペールは、船員たちが長い航海の間に、新鮮な野菜や果物の摂取が不足して壊血病に苦しんでいるのを知っていた。
また、当時ナポレオンの軍隊が食糧不足に悩んで、塩漬け・薫製以外の食糧貯蔵方法に懸賞をかけていたのに応募しようと決意し、瓶に詰めて加熱調理し、コルク栓をろうで密封しさらに煮沸するという方法を開発した。
アペールは1809年に、みごと当選して賞金1万200フランを手にした。
ただし、当時コルクはヨーロッパでは高価で、かつビンは行軍中などの際によく破損したので、軍隊ではあまり実用的とは言えなかった。
こうした欠点を補強すべく考えたのが、イギリスのピーター・デュランドである。デュラントはびんの代わりに、紅茶缶に似た形状のガラスと金属の容器を使用するという実用的なアイデアを考案する。「缶」は「Canister(カニスター)」に由来する言葉なのである。
このの発明を鉄工所経営者ブライアン・ダンキンとジョン・ホールとともに買い取ると、1811年、錫で内張りした鉄製の缶の生産を開始し、1818年までに1万2500キロの保存加工肉をイギリス海軍に納入したと言われる。
しかしこの頃の缶詰は食品を保存することに重きを置き、驚くべきことに、それをどうやって開けるかということまで配慮がされていなかった。
それで缶詰のレベルには”のみと金づちで上ぶたの縁近くを丸く切ること”と但し書きが書いてあったというわけである。
缶切りが普及するのは、ブリキが発明されて缶が開けやすくなった1860年代まで待たねばならなかった。それまでは巨大な専用の機械を使うか、のみと金づちで缶と格闘することを強いられたというわけである。
1855年にイエーツという人物が鉤爪型の缶きりを発明して特許をとり、1866年に缶の蓋のまわりをてこの原理で上下させながら切り開く刃付きの改良型を作りこれが普及した。蝶型のねじで歯車と刃を回し、缶の蓋のふちを切るコンビーフ型の缶きりが発明されたのは、1930年代。
その昔、フィートに代表されるように計測の単位はたいていは国王などの体の一部分の長さを単位としていた。
フランス革命で旧社会の諸制度に対する反感が高まり、こういった非科学で曖昧なものを改めようという動きが現れたのは当然の結果であった。
1790年、フランス革命直後の国民議会において、議員タレーラン=ペリゴールの提案で長さの単位を、世界規模で使えるものに統一することが決議された。
そして委員会がつくられ、学者が参加して協議した結果、地球の子午線を基準にすることになった。
ところが、その子午線を計測するのが非常に難航することになった。
何人かの学者が手分けしてあたったが、ドランブルという学者は、フランスのダンケルクの町の高い木の上に、測量のための目印の白い旗を立てた。
ところが白い旗は、国王の色をあらわしていたので共和派の住民が騒ぎだし、大騒動となった。
赤道付近まで測量にいったアラゴーという学者は、バレアス諸島へ測量に訪れたおりにスパイ容疑で逮捕され、長期間牢獄に収監された。
やっとの思いでフランスに帰ってきた彼は、なんとかシャツの下に隠していた、ボロボロになった測量結果を持ち帰った。
このように苦心の末、子午線の四千万分の一の長さを一メートルと決め、メートル原器を白金で製作した。
そして1799年、フランスは以後メートル法を採用することになった。
なお、メートルはギリシア語の「計測」を意味する「metron」からきている。
フランスの砲兵士官ニコラ・キュニョは、世界最初の自動車運転者であったが、発射数分後にして世界最初の自動車事故を起こしてしまい、起訴された挙げ句に有罪判決を受けて最初の悪質運転者となった。
キュニョの三輪自動車は1769年に登場したが、それは2気筒の蒸気エンジンで前輪駆動、言わば最初のFFだった。
設計者に主張するところによるとこの新型車は4人乗りで時速3.2kmで走るはずだったが、車体前部にどっかり据えられている巨大な銅製ボイラーの重みのせいで、この車の操縦は実際には不可能に近かかった。
それで処女試走の時、車はレンガの壁に正面から激突して、壁を打ち砕いてしまった。
キュニョはこれに挫けず一年を費やして、今度はより大型の大砲輸送用車を建造し、フランス軍に売り込んだ。
ところが今度もまた試運転でしくじってしまう。
パリの街角で行われた試験で、彼はコーナーを曲がりきれずに車を横転させてしまったのである。
不幸なこの男は結局、投獄され、車は没収されてしまった。
キュニョが自由のみになって再び車の改良に取り組めるようになったのは、革命後のことであった。
彼はブリュッセルに移り住み、そこで1804年に亡くなった。
キュニョの不名誉な大砲輸送車は後日復元され、彼のただ一つの記念物として、パリの技芸学校に保存されている。