1769年8月15日に生まれた未来の皇帝は、コルシカ独立戦争で死んだ叔父の名をとって”ナポレオン”(荒野のライオンというほどの意味もある)と名づけられた。
これはコルシカ島がジェノヴァ領からフランス領に変わった、まさにその次の年であった。
この偶然によってかろうじてフランス国籍を得たナポレオンであったが、彼はある時期まで自分をフランス人だとは思っていなかった。
言葉もイタリア語圏内のコルシカでは、フランス国籍に変わったとはいっても、彼も家族もイタリア語(コルシカ方言)をはなし、名前もイタリア風にナブリオーネ・ブオナパルテと名乗り、その後も1796年まではこのサインを使っていた。
彼は自分を誇り高きコルシカ人であると考えていたが、親フランス派に鞍替えした父シャルルの意向で、兄ジョゼフとともにフランス流の教育を受けることになった。
つまり”留学”である。
学校では回りは貴族の子弟ばかりで、彼は被植民地民として冷たいあしらいを受ける。
彼のあだ名は、彼のコルシカ方言の混ざったイタリア風フランス語を馬鹿にして、(イタリア語風のナポレオーネでもフランス語風のナポレオンでもない彼の言う)”ナポイオーネ”をもじった”ラ・パイユ・オー・ネ(=Le paille au nez)”であった。
これは「鼻先にぶらさがったワラ」もしくは「鼻の穴につっ込んだ麦わら」といった意味であるから、彼の変なフランス語を馬鹿にするとともに、彼の鷲鼻も馬鹿にしているわけである。
フランス人らしく良く気のきいた悪口であるが、幼いナポレオンは自らが外国人であることを切実に感じたことであろう。
さて、砲兵士官となった後も、ナポレオンの心の祖国はコルシカであった。
この後、彼はことあるごとに帰郷し、コルシカ独立運動に参加しようとする。
彼にとっては革命も”対岸の火事”に過ぎず、その意味でパリに滞在中には革命をゆうゆうと見物したのであった。
彼は民衆に向って発砲を命じたときも、外国人傭兵士官の一人として、ただ機械的に何の躊躇もしなかったのであった。
しかし彼の転機は突如として訪れた。
親フランス派として逆にコルシカ人から外国の手先扱いされて、生命を脅かされる事態となったのだ。
一家はフランスに”亡命”する。
この時期、彼は食いつなぐのがやっとであったが、徐々にこの国”フランス”で政治的な活動を開始する。
トゥーロンでの成功が、彼を一躍スターダムに押し上げ、彼にこの国で成功の可能性を予感させた。
彼がこころからフランス人として生きようと決心したのは、1796年、ジョセフィーヌと結婚してイタリア遠征軍司令官の任についてからのことであった。
サインもナポレオン・ボナパルトと改め、二度とコルシカの地を踏むことはなかったのである。
(画像は話と関係ありません) |