お菓子を食べさせておやり(マリー・アントワネット)


1789年10月、”十月行進”においてパリ市民、とりわけ女性を中心とした群衆がヴェルサイユ宮殿に押しかけ、パンを要求した。 ことの起こりは小麦の不作によるパンの不足に端を発している。
国王一派の反革命的な挑発行為も手伝って、これはすぐに大きな暴動へと発展したのであった。 広く一般に信じられている話によると、宮殿の屋外の騒々しさを聞きつけた王妃マリー・アントワネットは、人々がパンも手にできずに飢えていると知って、 "Qu'ils mangent de la brioche." =「お菓子を食べさせておやり」 と言ったと伝えられる。
この話は王妃の処刑後、いっそう広く伝わり、貧民の苦しみに対する彼女の冷淡さと無関心、愚かさの典型例と見なされたが、実は彼女がそのような発言をしたとの確固たる証拠は無いのである。 実のところこの言葉が初めて出現したのは1760年代、ジャン=ジャック・ルソーの「告白録」という書物の中で、このころマリー・アントワネットはまだマリア・アントニアと呼ばれた少女に過ぎなかった。
文中でルソーは、”ある偉大な王女”について語っている。彼女は農民にパンがないと聞いて、"Qu'ils mangent de la brioche."と答える。”brioche(ブリオッシュ)”とは最高級のパンのことで、この王女はこの種のパンしか知らなかったのである。したがってこの言葉は実際には親切心のあらわれだったのである。 マリー・アントワネットは言ってもいないことを言ったと思われ、やってもいないことをやったように誤解された悲運な人物であるが、その背景には彼女が宮廷外のことへの無関心であったことも事実である。 彼女が”外の世界”の現実を知った時、それは恐怖をともなって雪崩れのように押寄せ、彼女の髪からも生気を失わせたのであった。


 
三色旗 ・(Tricolore)


フランス革命の次の日の1789年7月15日、国民衛兵隊総司令官となったラファイエットは、流血の騒ぎで決裂した国王とパリ市民との関係修復のために、パリ市の軍隊の色である赤と青の間に、ブルボン王家の色である白をはさんで、この新しい市民兵の記章とすることにした。これがフランス国旗の起源である。後の1790年9月21日に、正式に国旗として議会で制定された。


 
紙巻きタバコ


1799年、ボナパルトのシリア遠征においてフランス軍の襲撃を受けたアクレ(アクル、アッコ、アッコン)の城塞の守備兵のトルコ系兵士たちが、初めてシガレット(紙巻きタバコ)を発明したと伝えられている。
飛来する砲弾の炸裂により、水タバコの水煙管が壊れたために、兵士たちの唯一の楽しみであったタバコが吸えなくなってしまった。
そこで彼らは、大砲に点火するための導火紙でタバコの葉を巻いて代用し、吸引するようになったという。


 
ウェリントン・ブーツ


アマゾン流域に住むインディオたちは、奇妙なことにウェリントン・ブーツの(ひざまでの長さのゴムもしくは皮製の長靴)の先駆者というべきかもしれない。
彼らはまずゴムの木から採った生のゴムの液、つまりラテックスに自分たちの足を浸す。
ラテックスが乾くと足にぴったりの「ブーツ」が出来上がり、トゲや虫刺されから皮膚を守る道具になるのだ。
”ウェリントン・ブーツ”は、当時、皮製で、初代ウェリントン公爵がワーテルロー会戦のときに幕僚将校のスタッフとともに着用したので、公にちなんで名付けられたと言われている。
最初のゴム製のウェリントン・ブーツは1851年、公爵が亡くなる一年前に発売された。



 
マダム・タソー(仏・テュソー)の蝋人形館


1789年にバスチーユ牢獄の襲撃を契機にフランス革命が勃発したとき、革命政府は釈放した政治犯の模像製作を、若いマリー・グロスホルツに依頼した。
彼女はすでにパリで評判の蝋人形師であった。
この作業をするために、まだ混乱の覚めやらないバスチーユの地下牢に下りていくときに、散らばっていた瓦礫に足をすべらし、若きマクシミリアン・ロベス ピエールに救われたという伝説がある。
ついでに言うとこのバスチーユの瓦礫は、革命派のパルロイというめざとい人物が、群衆を労働者として雇って売り払ってしまったのであり、ベルリンの壁のその後にどこか似ていた。
さてその後の革命は急展開して、わずか数年後にロベスピエールはテルミドールのクーデタで崩れ、処刑されてしまう。
その時、ギロチン台から転げ落ちた彼の首を拾い上げたマリーが、ひざに抱きかかえてデス・マスクを取ったというのは現代でいうなら信じられない話であるが、彼女はこれをパリで当時経営していた蝋人形館に展示していたのであった。
実際かなりの悪趣味であるが、かなりうけていたようで、彼女はこの方法で何人ものギロチン犠牲者のデス・マスクを取って展示していた。
これによって金持ちになったマリーは、1795年に技師タソー(フランス語読みでテュソー)と結婚したが、結婚生活はうまくかずに、1802年に彼女は自分の財産である蝋人形を全部もってイギリスに渡る。
イギリスでの興行は大盛況で、王族や有名人の蝋型を携えてその後の30年間にわたって全国を巡回。
1834年にはロンドンのベーカー街に蝋人形館を開いて、1850年に88歳で没するまで同地で暮していたという。