チェス をさす人形


ウォルガンク・フォン・ケンペレン男爵は、18世紀のヨーロッパを煙に巻いた機械仕掛けの天才だった。その機械はトルコ人の服装をして、チェスがさせ、おまけにいつも相手に勝つのだった。 当時、このトルコ人形がまやかしだということは誰にも見破れなかった。 男爵がその機械発明の才に劣らぬくらい、すばらしい詐欺の才能に恵まれているということに人々は気づかなかったのである。 このトルコ人形は1769年にウィーンで作られ、長さ1.2メートル、幅60センチ、高さ90センチの箱の向こうに座り、その前にはチェス盤があって、左手で寸分の狂いも無く駒を動かした。 毎回試合の前に、男爵はマジシャンがよくやるように箱の各部分を開いて、(実はダミーの)ハンドルや歯車や円筒形の部品など仕掛けのいっさいを見せた。 当時の人々は人形が動くこと自体に怪しみ、人形の中にチェスの上手な”小人”がいて試合をしていると思っていたが、実際には箱のなかに人間が隠れていてトルコ人形を操っていたのである。 オーストリア皇帝ヨーゼフ二世は、ヨーロッパ各地の宮廷にこのトルコ人形を送り込んで、(現実には適わない)敵対する王侯貴族をことごとく打ち破った。 その相手はロシアのエカチェリーナやナポレオンも含まれていたのである。ナポレオンはチェスが下手だった。彼は人形相手でも、”いつもどうり”に癇癪を起こして途中でゲームを辞めた。
この人形のからくりは、ケンペレンが1804年に死んで人形がアメリカに持っていかれるまで誰にも見破られなかった。 この人形はフィラデルフィアにある博物館に買い取られたが、1854年に火災で焼失してしまった。


 
ラ・マルセイエーズ (La Marseillaise)


この有名な曲が作られたのは、1792年、ライン河畔のストラスブールの町でであった。 この年は革命勃発から三年目で、ちょうど外国の反革命勢力が本格的に干渉してきた年でもあり、フランス全土でまさに動乱の最中にあったのである。 そうしたなか4月20日にジロンド派政権のフランスはオーストリアに宣戦布告し、ストラスブールに限らず全国の町々では動員の慌ただしさと愛国的ムードの高揚とで、夜遅くまで町は興奮の坩堝と化していた。 (おそらく25日)ある晩、革命を支持し公選によって選ばれたストラスブール市長のP・F・ディトリック男爵は、出征する軍将校たちのために歓送会を開いていた。 酔いが回り話がはずむなかで、市長は彼らの所属するライン軍団に軍団独自の行進曲がないのを残念がり、傍らにいた工兵隊長クロード・ジョゼフ・ルジェ・ド・リール大尉がアマチュア音楽家として定評があったのを知っていた市長は、彼に作詞作曲を依頼しようということになった。 (当時、近衛隊や前の戦争で活躍した連隊などには独自の行進曲があってそれを一種の誇りとしてた。)
突然依頼を受けることになったド・リール大尉は驚いたものの、興奮覚めやら ぬ間に一夜にして書き上げ、ここにあの名曲が生まれたのである。 彼はこれを「ライン軍団の戦闘歌」と名づけたのであるが、この軽快で勇壮なメロディー、親しみやすい歌詞の曲はすぐに各地の部隊に浸透して、広く歌われるようになった。 有名な8月10日の革命の前にマルセイユの連盟兵がパリに入城した際に、彼らは高らかにこの歌を歌いながら現れたために、初めて聞いたパリ市民は彼ら自身が作った歌に違いないと思い込んで、これを「ラ・マルセイエーズ=(マルセイユの人たち)」と名づけたので、ド・リールの名は忘れ去られ、以後ながく作者不明の状態がつづくことになったのである。 さてこのラ・マルセイエーズであるが、メニューページでもわかるとおり、歌詞は過激な内容である。 そこに書かれていることは大略して、「市民へ蜂起の呼びかけ」「革命の擁護」と「打倒、専制君主」「打倒・外国勢力」であり、ゆえに1795年7月14日付けの法令で正式に国歌となったこの歌も、何度か禁止の憂き目にあうことになる。 この歌はあるいみ革命を象徴するものであるが、打倒専制君主を叫ばれては皇帝ナポレオンも居たたまれなかったのであろう。 ナポレオンは権力を握っていらいずっとこれを禁止していたが、兵隊たちはこの歌に愛着をもっていたのでしばしば歌われ、ナポレオンを特に厳しく取り締まってはいなかったようである。 王政復古後、ブルボン家はこの歌を毛嫌いして厳しく禁止していたが、王党派の専横を嫌う民衆によって歌い継がれ、1830年の7月革命で晴れて解禁となる。 しかしルイ=ナポレオンの第二帝政により再び禁止。 それでもその後の第三共和政成立後、1879年3月14日に再び正式にフランス国歌として採用され今日に至っている。 ちなみにディトリック男爵はその後、貴族ゆえにギロチン台送りとなり、ド・リール大尉も革命から脱落し生前に日の目を見ることはなかった。

(付録)
さびの部分の最後、”Qu'un sang impur Abreuve nos sillons”の意味が今まで良く分からなかったのであるが、分かったので記す。 ”敵の汚れた血で畑の畝(溝になったところ)を満たせ”という意味で、つまり侵略者を皆殺しにして畑の肥やしにしてしまえ、ということなのであろう。 この一文を見ただけでも革命の性格がそうぞうすることができよう。


 
気球 、英仏海峡を渡る


1785年に最初の英仏海峡空中横断が実現したが、これほどの歴史的快挙にしては、その結末はいささか品が無かった。 気球飛行家のジャン・ピエール・ブランシャールと、その後援者でアメリカ人のジョン・ジェフリーズ博士は、巨大な水素入り気球につるしたゴンドラに勇んで乗り込んだ。 気球には”羽ばたき翼”とプロペラが取り付けられ、粗末ではあるがこれが一応推進装置のつもりであった。
ドーバーの崖からの出発は順調だった。 しかしフランスの海岸まであと10キロ足らずというところで、高度が急に下がりだした。 二人の飛行家は、まず手持ちの道具箱を投げ捨てた。 下降はやや収まったが、依然ゆっくりと下りていく。 そこで絶望に駆られ、とうとう身につけていた衣服を脱ぎはじめ、海に放り投げた。 この絶望的な努力が功を奏したのか、幸運にも何とか海峡を越え、約20キロ陸地を進んだ地点の森の中に着陸することができた。 しかしこのとき彼らが身につけていたのはパンツだけだったと言う。