ルイ17世ことルイ=シャルル王子は、ルイ16世とマリー・アントワネットとの間に次男として生まれ、1793年1月21日に父がギロチンで処刑されたと同時にルイ17世となったと系譜上で解釈される奇妙な、そして不幸な少年王であったが、ロマノフ家の皇女アナスタシアと同じように”生存説”が根強く流布された王でもあった。(長男ルイ=ジョゼフ王子は1789年に夭折した。なおアナスタシアの遺骨は単に塩酸とたき火で念入り焼却されただけであると確認された)
父の刑死後、タンブル塔の三階に幽閉されていたこの可哀相な少年は、四階の母マリー・アントワネットと姉マリー・テレーズとも離れ離れで、一人で孤独な生活を強いられていた。このときわずか8歳にすぎなかった囚人ルイ=シャルル・ド・カペーの境遇に、非情で知られる公安委員会もあまりに哀れに思ったのか、途中から靴屋のシモン夫妻が王子の世話役 兼 監視役として起居を共にすることになる。いたずら盛りの元気な少年であった王子は、自身の置かれている立場を理解していないようだったが、シモンから教わった革命歌カルマニョールを高唱して四
階の姉を辟易させるほど健康だった。10月16日に母マリー・アントワネットが衆人の歓呼の中で処刑され、外国軍の干渉が強まると、王家への風当たりはまた悪くなった。翌年1月4日に親しくなったシモン夫妻は慌ただしく退去することを命じられ、と同時にタンブル塔は改装工事が始まった。窓は固く閉ざされ、頑丈な扉が新たに付け替えられ、らせん階段には七個所も施錠付きの鉄製の格子戸がほどこされた。王子は日も射さない、暗く冷たい部屋に監禁され、牢番も肉眼で確認できなくなったために、日に二回、パリ市吏員が交代で来て「カペーの餓鬼」と呼びかけて所在を確かめるのが常となった。
それから7ヶ月後、フランスでは政変があってロベスピエールらが失脚し、代わってポール・バラスらが新たに政府の実力者となっていた。1794年7月28日、バラスは王子と面会するためにタンブル塔を訪れ、そこで凄惨な状況を目撃する。彼を驚かせたのは、部屋の汚さ、暗さはもとより、王子自身であった。王子は9歳という年に似合わない背丈(15歳程度だったと言われている)で、手首と膝が腫れて歩行も困難なうえ、全くの痴呆状態で口を利くことができない有り様だったのである。王子の病状は深刻で、全身がカリエスに冒され、寄生虫による下痢と嘔吐で衰弱しきっており、死に瀕していた。
しかしこんな短期間で、こんなに人は変わるものであろうか?
この”全く別人としか思えない王子”は、そのさらに1年後、1795年6月7日に満10歳2ヶ月で他界した。解剖所見は全身結核ということになったが、死体の身長は10歳の平均よりも40センチ以上長く、埋葬時に子どものものとは思えない大きな棺が使われたことから、すぐに噂が広まることになった。”死体のすり替えがあったのではないか?”
噂が広まるともっともらしい事実が、どんどん明るみに出てきた。20年後にシモン夫人が尼僧に告白したところによると、夫妻はタンブル塔を出るときに王子と身代わりの少年とを入れ替えたといい、「わたしの王子さまは死んではいないわ」と断言したというのである。また、バラスが獄舎を訪問したとき、牢獄の中の異形の王子を見て新入りの牢番はこれは偽者だと告げたといい、バラスはすぐさま王子を捜索するように手配したという。また、牢を訪ねた他の政府役人たちの証言として、ある一人は子どもは聾唖者であると結論し、あるものは「かって見たこともないほど哀れな生き物」と表現した。またプチチバルという銀行家は王子の死亡証明書は偽造であると非難し、それから1年も立たないうちに彼の一家は皆殺しの目にあった。そしてバラスはその報告書で、プチチバル家のものは「諸君らもご承知の例の少年をのぞいて」全員死んだと、意味深に述べたという。そしてもっともましな証拠として、1846年に遺体を掘り出してみた2人の医師は、遺体は10歳のものというよりも15歳か16歳の少年のものであると証言し、1894年に改めて遺骨を検査した結果、遺骨は16歳から18歳までの年齢の少年のものと鑑定されたのである。つまり少なくとも墓の主は、墓碑銘とは違ったという推定である。
とは言え、王子がタンブル塔で”死ななかった”ということを証明することはできない。替え玉説には確かに可能性はあるが、ただそれだけである。むしろ忽然と一人の人間を消し去るとことができるかいう考えの方に、不自然な疑念が残る。バラスは軽薄なうそつきであったし、他の役人たちも王子を一回も見たことがなかったにも関わらず、王子の生存、替え玉説を示唆していた。また姉マリー・
テレーズは王子の臨終にも埋葬にも立ち会うことを許されなかったにも関わらず、王子の死亡を確信し、生涯その主張を変えなかった。ここに謎が残ったのである。
しかし話はここで終らなかった。1815年、ナポレオンがセント=ヘレナに流されてブルボン家が復位すると、すでにまことしやかに広まっていたルイ17世生存説はにわかに勢いを得て、なんと32名もの自称・ルイ17世が出現したのである。ブルボン家はこれに大いに悩まされた。現在の国王ルイ18世はルイ16世の弟であり、もしルイ=シャルル王子が存命しているとすると王位を譲り渡さなければならないほどの一大事である。もともと不人気な国王であっただけに、その正当性をなんとしても守る必要があった。
自称者の中には一見してニセモノとわかる者から、名うてのペテン師が巧妙に細工した者まで様々であったが、その中でももっとも強硬で、かつ執拗に認知を迫ってきた人物が人々の強い関心を引いていた。
その人物は1833年にザクセンからやって来た、カール・ヴィルヘルム・ナウンドルフと名乗る時計職人である。この人物は自分こそが失われた世継ぎであると称し、その主張を裏付ける幾つかの証拠をもっていた。彼の主張の特異な点は、当時広く流布されていた牢番によって救い出されたというのではない点であった。彼はバラスが彼を牢内の別の場所に移し、身代わりの少年を入れたと言うのである。そして身代わりが死んだ日に、王子は密かに連れ出されてイタリアからプロシア(ドイツ)に送られ、そこでナウンドルフという名が付けられたというのであった。彼の外見は王族一家のそれに良く似ていると言われ、ルイ16世の司法官も、昔乳母だったラムボー夫人も王子であると認知したが、この乳母はペテン師のリッシュモンについても王子本人であると認めたことがあり、どうも可愛い王子がどうか生きていて欲しいという願望の方が強かったようである。一方、唯一生存している肉親の姉マリー・テレーズは現国王ルイ18世の弟で皇太子アルトワ伯の長男アングレーム公の妻となっていたが、度重なる不幸が性
格を厳しくし、無愛想な硬いカトリック教徒になっていた。
彼女はこの人物のタンブル塔脱出の経緯に納得せず、フランス語もカルマニョールの歌も覚えていないこの男を信用せずに、面会をかたくなに拒んだ。
しかし余人はかえってこの公妃の拒絶は彼の主張が正しいことの裏付けであると見なした。
なにしろ彼女は国王である叔父を支持しており、その後継者の妻に収まっていたからである。
また別の見方をすると、この話が本当であるとすると弟だけ助けれられたということにも反感があったのかも知れないと、余人は考えたのである。
とはいえ、10歳と言えば物心も付きはじめた年頃だけに、まったく覚えていないのはおかしいという彼女の反論も無視できない。
またバラスほどのお喋りがなぜこのような重大事を黙っておくことができただろうか?
またなぜ証人になりうるバラスの死後にわざわざ現れたのであろうか?
ナウンドルフは認知要求を裁判所に提出して民事訴訟を起こしたが、たちまち逮捕され、国外追放となった。
ブルボン家は真実を探求し、真偽を明らかにすることより、王権の権威のほうを優先し、手っ取り早い手段をとったのである。
9年後、彼はオランダで死んだ。
死亡証明書には「ルイ16世とマリー・アントワネットの子、ルイ=シャルル・ド・ブルボン(カペー)、享年60歳」と記されることになった。
しかしながら長い年月がたって、うやむやにされた真実は、20世紀の科学が最後に証明することになった。
2000年に行われたDNA検査で、ルイ17世の墓の主が、19世紀の鑑定家の意見に反して、確かにマリーアントワネットの息子であることを証明したのである。
ということはナウンドルフもやはり巧妙なる詐欺師であったのだ。
彼はまんまと人々を騙し続けたと喝采し、偽りの墓碑銘の下でほそく笑んでいることだろう。