ナポレオン支配の二十年間は、戦利品によってルーブル美術館を無遠慮に豊かにした。
これらの中には降伏の代価として正式に引き渡されたものもあれば、有無を言わさず強奪されたものもあった。
そこで1815年にナポレオンが凋落すると、連合軍はこぞって美術品の取り返そうと躍起になった。
彼らはブルボン家を連れ戻したという大義のもと、パリの征服者として、我がもの顔に奪い去っていく。
学芸員たちは青ざめ、何とか美術品を守ろうと四苦八苦するが、軍隊は国王命令でダヴー元帥とともにロワール地方に遠ざかっており、憲兵もその政治的信念を疑われて解体されていた。
不幸な学芸員たちは泣く泣くこれを引き渡さざるえなかったのである。 ところが一つ厄介な大理石像が引き取り手も無く残ってしまった。それは高さ2メートル半、重さ7トンという巨大な大理石の塊の、カノーヴァ作のナポレオン像である。
王政復古で彼らが宮殿を汚していると考えていた権力簒奪者の肖像はできるかぎり取り除かれたが、この強大な像は置く場所も無く隠すに隠せない厄介な代物であった。
それで売ろうという話になったのだが、偉大な皇帝は古美術商の間でも値段が下落していた。
それにこの像は非常な大きさでよく知られていたので、密かに売りさばくわけにもいかなかった。
国内がまだ騒然としている中で、変にこの問題をこじらせると何かと不都合が生じそうだった。
考えた挙げ句、イギリスはあの像の本人を世界から追っ払う役を引き受けたのだから、あの像をルーブルから引き取ることもためらわないだろうという結論に達したのである。
イギリス大使に打診すると、骨董好きのイギリス人のこと、話はかなり早くまとまって、フランスが運賃と梱包料を負担するという条件で、6万6千フランで買い取られる算段となった。
4月1日から4ヶ月を経てテムズまで運搬されたこの”重荷”は、7月30日に開封される。大理石像は無疵であった。像は幽霊のような白い姿であり、唇は侮蔑的で、額は秀麗、大理石の眼には瞳がなく、体は若い神のごとくであった。
というのもナポレオンは素っ裸の姿で表されていたからである。
あらゆる点から考えてみて、これは金を出して買うだけの価値があると思った外務次官ハミルトン卿は、約束通りに支払いを済ませた。そしてこの大理石像は、ワーテルローの勝利者、ウェリントン卿に贈られたのであった。
ところがウェリントン卿はこの像を気に入らず、迷惑がった。しかし置くところも無いので、卿はこの粗大な像を玄関の帽子掛けとして使うことにした。こうして大理石の裸の皇帝は、ウェリントンの邸宅で帽子持ちの召使いとして仕えることになったのである。この像は今もロンドンのアスプレイ・ハウスにあり、現在は博物館となっている。
ところでナポレオン本人はこの大理石像をどう思っていたのであろうか。実は皇帝は完成したこのヌード像を一目見ただけで、「悪趣味だ」といってルーブルの隅に片付けさせたのである。抽象化されているとはいっても、さすがに自分の全裸を飾る気にはならなかったのだろう。
ナポレオンの癖は、絵画で有名になったあのチョッキの中に片手を突っ込んでいる姿が、まず浮かぶと思うが、実際に彼の仕種でもっとも目立ち、特徴的だったのは、両手を後ろ手に組む仕種であった。
戦争から帰ってきたある日、戦場でパリでの社交界の面白いスキャンダル話を聞いていたナポレオンは、自分もまた相伴にあずかりたいと思い立ち、従者のコンスタンに言った。
「コンスタン、私は今晩イタリア大使の仮装舞踏会へダンスをしに行く事にした。君は今日昼の中に、特注の衣装を10着、私の部屋に届させておいてくれ。」
コンスタンは彼なりにいろいろ考えて、皇帝にドミノの衣装を着せる事にした。
というのもこれが一番外から見て人柄の見分けがつきにくいと判断したからである。
ナポレオンは何でわざわざこんな馬鹿な変装をするのかとか、いかにもみっともない格好だとか、あれこれ小言を言ったが、丸め込まれて、結局はこれで行くことにした。
しかし履き物だけは頑として聞き入れず、いつもの物を履いて行くことにした。
それで会場に入るなり、すぐに見破られてしまうことになる。
皇帝はいつもの癖で、背中に手を回しながら、いきなりずけずけと仮装舞踏会の場に進んでいったために、最初に話し掛けた相手は、すぐに「陛下」と呼んで応答してきたのである。
がっかりしたナポレオンはまっすぐコンスタンのところに戻ってきて、
「君の言ったとおりだった、コンスタン。すぐ私だと分かってしまった。別のコスチュームと編み上げ靴を持ってきてくれ。」と言った。
皇帝は今度は反省して、一々コンスタンの”訓令”の通りに従おうと言って、新しい衣装に着替えて再び会場に入った。
しかし入ったとたんに手を後ろに組んだため、すぐにある御婦人に声をかけられてしまった。
「陛下、わかりましてよ。」
ナポレオンは慌てて両手を下におろしたが、もう遅かった。
それで皇帝が歩くたびに、全員が恭しく道を開けることになった。
ナポレオンはもう一度、別室に戻ってきて、三つ目の衣装に着替えた。
そして今度こそ動作や歩き方に注意し、なるべく見破られないように用心しながら口を利こう、と自分に言い聞かせた。
だが、その歩き方はまるで兵営に入るときそっくりで、あたりかまわず周囲の者を突き退けながら、威風堂々と入場したので、またたちまち耳元でそっと囁かれた。
「陛下はもうとっくに知られてますよ!」
困り抜いたナポレオンは、また衣装を変えて、いよいよトルコのパシャの変装で現れたところ、たちまち全員が声高く唱和した。
「皇帝陛下万歳!」
日本にとって、”オーストラリア”と違って”オーストリア”は馴染みの薄い国と言えるであろう。
オーストリアと言えば、ドイツの下にある山国で、歴史の授業や「サウンド・オブ・ミュージック」で知っているぐらいか。ともかく縁遠い国という印象があると思う。
しかし両者には国名という点で意外な共通点がある。
一般的に私たちは”オーストリア”と英語流に読んでいるが、ドイツ語流で言うと”エースライヒ”となる。
”エース”とは英語の”イースト”と同じであるから、つまり”東”という意味であり、”ライヒ”はドイツ語で”国”を意味する言葉である。
要するに”東の国”ということだ。
オーストリアはもともとハプスブルク家のオーストリア辺境伯がオーストリア大公となり、神聖ローマ皇帝、オーストリア皇帝となってこの地に根づいたことに由来する。
もとはフランク王国の東の辺境地を守る一領主だったというわけだ。
これがどうして日本と共通点があるのかというと、”日本”という国号の由来は、”ヒノモトノクニヤマト”だからである。
”日”というのはもちろん太陽のことで、内容には別に含む意味も加えられてはいるが、額面は「太陽の方角にある倭という名の国」ということであり、その前部分だけを取った”日本”とは(日のいずる国という意味もあるが)まさしく”東の国”ということを意味していると、言えなくもないと思う。
であるから、全く関係ないような二つの国は、”ほとんど”似たような国名だったというわけである。