三頭派の政治家、開明貴族。軍人。ラメット兄弟の五男。 (略称:シャルル・ド・ラメット) 二番目に有名なラメット兄弟の一人。
1757年10月5日、パリで生誕。
アメリカ独立戦争に参加し、フランス派遣軍司令官のロシャンボー将軍の幕僚として主計総監[#1]の副官の一人となり、ヨークタウン占領では堡塁奪取の戦闘で両足に重傷を負うが、戦功をたてて名をあげた。帰国後、王室胸甲騎兵連隊の大佐となり、サン=ルイ勲章を授与される。
89年の三部会ではアルトワ地区の貴族代表に選ばれて改革を主張。シャルルは立憲国民議会への参加を決めた最初の貴族議員団の一人であり、国民議会では左派に陣取ることが多かった。
早い段階から出版・信仰の自由を主張。弟アレクサンドルの三頭派に与して革命推進をめざしたが、同じ立憲派でありながら、ミラボーの個人的な宿敵で、後にミラボーが死の床にあったときも、特にシャルルは見舞いの議員団に加わることを拒絶したほどであった。亡命貴族軍を率いるコンデ大公を裏切り者と宣告せよというミラボーの決議にも反対した。また貴族の法的特権は、国王と王太子にのみに限定して与えられるべきだと考えていた。他方、「黒人友の会」のメンバーであったのだが、西インド諸島サン=ドマングの大富蒙の娘[#2]との結婚で多数の黒人奴隷を抱える資産家となって、資産保護のために奴隷解放には反対し、不興をかった。
91年6月20日のヴァレンヌ事件の後、王政を救うべく奔走。国王が憲法への誓いを改めて執り行うように主張し、左翼化したジャコバン・クラブを離れて、
他の立憲派とともにフイヤン・クラブを結成した。91年7月5日、二代目[#3]の立法議会議長に選出され、この影響力を利用して立憲王政の樹立に尽力した。
92年、戦争が勃発すると北方軍に将軍として加わって旅団を指揮。八月十日の王権停止に抗議したために解任され、ルーアンで逮捕された。ここで1ヵ月ほど拘留されたあと、脱走してハンブルグに亡命。ここで商売を営んだ。97年に帰国して市民権の回復しようとしていたが、フリュクチドールのクーデタで再度バーゼルへ亡命を余儀なくされる。しかし総裁政府の圧力により、バーゼルを追われ、ハンブルグに移った。
ナポレオン体制になり、1800年4月21日に亡命貴族リストから削除されて帰仏。すぐに軍籍に戻り、1809年にはハナウで実際に軍務につくなど、14年まで将官として軍籍にあった。帝政期にはヴュルツブルクや、スペインなどの征服地総督を歴任。このため王政復古期はしばらく隠棲していたが、29年の弟アレクサンドルの死でその議席を継承して議員となり、7月革命では革命派に協力した。1832年12月28日、パリで死去。
#1 | [ | Marechal general des logis ] | |
#2 | [ | マリー=アンヌ・ド・ピコ・ド・ダンピエール。 ] | |
#3 | [ | 初代の立法議会議長はアレクサンドル・ド・ボーアルネ。ジョゼフィーヌの前夫。 ] |