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医者。人道主義者。ギロチン使用の提案者。
1738年5月28日、サントで生誕。イエズス会修道士になろうとして失敗した後、ボルドーのコレージュで文学の教授となって教えた。それから医学を志すようになって一念発起、ランスで医学を学び、68年にパリ大学に進む。70年に抜群の成績で卒業して医学博士となった。
王弟プロヴァンス伯爵の侍医となり、84年、医者として名声を獲得していたギヨタン博士は、「動物磁気説[#1]」に関する王立調査委員会[#2]の一員となり、同委員会は動物磁気の根拠を否定してこれを用いた療法の禁止令をだしたことで知られる。
88年12月、パリ市民による誓願運動に参加。出版の自由と、三部会での第三身分の投票権数が少なくとも第一、第二身分の合計と等しくなるように求めた。翌89年5月2日、パリから選出された第三身分の10人の議員のうちの1人となり、三部会に参加。国民議会への移行後は、6月から91年10月に議会が解散するまで書記を務めた。またパリの医療機関の整備にも専心。医学学校の改革にも着手した。
89年10月10日、フランスの刑法に関する討論の二日目に、新しい立法議会で採用されるべき処刑方法のあり方として、ギヨタン博士は6つの要点を上げ、人道的で確実、苦痛の少ないものとして、新たに斬首台の使用を提唱した。この斬首台[#3] は、二本の柱を立て、その間に斜状の刃のある斧を吊り、その下に受刑者をねかせ、死刑執行者が縄を引くと、その斧が落下して受刑者の頸部を切断するという仕組みであった。当時、斧や剣による首切り処刑は主に上流階級の罪人にしか適用されず、多くの貧しい罪人には苦痛の長い絞首刑が適用され、また首切り役人の技量によっては失敗して何度も切りつけなければならないこともあって不評であったため、この提案は広範囲に支持された。しかしギヨタン博士の、この装置は受刑者には無痛であるかもしれないという主張は、一笑にふされる。この装置は、”ルイゼット”あるいは”ルイゾン”[#4] と名づけられたのだが、すぐにギヨタン博士の装置(子供)ということで、”ギロチン”と呼ばれることになり、これが定着した。本人は何度となく抗議したが聞き入れられなかったため、結局、家族は姓を変えざるえなかった。92年4月25日、このギロチンの最初の犠牲者は、ジャック=ニコラ・ペルティエという名の追いはぎだった。[#5]
装置は死刑執行人サンソン[#6]の手で操作され、申し分なくその役割を果たす。それ以後、革命広場と新たに名づけられた広場にすえつけられたこの斬首台は、多くの人間の首を切り落として活躍した。
ただギロチンによる処刑はそもそも人道的処刑器具として考案採用されているため、迅速に大量処刑するには向いていなかった。パリでの一日の最高数は、皮肉にもテルミドールの2日後の記録された。つまり1794 年7月29日の70の首を切り落としたのである。(恐怖政治の時期内では、1794年7月7日の68の首が最高) パリでのギロチン処刑数の総数には、諸説あるが、1793年の3月から1794年7月の期間で、2639(ないし2625)の首を落としたという数字が研究者によって数えられている。全国総数では16600人程度がギロチン処刑の犠牲になったというのが通説だ。しかし恐怖政治での処刑者数は、ギロチン以外の方法が圧倒的に多くて、カリエがナントで溺死させた犠牲者だけで約1万人になり 、一斉射撃や大砲の散弾などの処刑、さらには手斧やその他の方法による殺害などがあり、恐怖政治全体の犠牲者が60~80 万人と言われるので、ギロチン処刑の被害者は、全体からみればわずか2~2.7%にしかすぎない。一般にギロチンによって大量処刑したと思われているがそれは間違いだ。
一方、ギヨタン博士は上水道の整備など、衛生保健政策に尽力するが、恐怖政治下では彼自身も投獄された。しかし裁判もなく、処刑もされず、テルミドールのクーデタ後に釈放された。彼がギロチンで処刑されたというのは間違った俗説。
ギヨタン博士はエドワード・ジェンナーの牛痘種痘法を支持した最初のフランス人医師で、1805年には予防接種委員会の委員長となった。1814年に左肩の疔が原因で死去した。

#1[ウィーンの学者、フランツ=アントン・メスメルが提唱した学説。人間の感情が高揚するのは遊星から放射される動物磁気というもののためだとし、この動物磁気は病気に対する治癒力と予防力をも持つという考え。パリに治療室を開設し、催眠現象を利用した治療を施したため、当時、パリで話題になった。 ]
#2[この委員会にはラボワジェなども参加してた。当時、催眠術は認知されておらず、メスメル自身も自分の療法の原理を理解していなかったので、魔術の一種と見られて禁止された。 ]
#3[ 現在”ギロチン”と呼ばれているものの原型は、早くは13世紀には登場し、西ヨーロッパ各地で使用されてきた。ゆえにこれは”発明”されたわけではない。改良されたのである。実際にフランス革命で用いられたものは、外科アカデミーの秘書だった外科医アントワーヌ・ルイが設計したもので、試作品の製作はドイツのハープシコード製作者トビアス・シュミットが行った。シュミットは斧の刃を、従来使われてきた半月形の刃から、45度の角度傾斜した斜め刃に変更し、より効率的にした。 ]
#4["Louisette" or "Louison"一般的には女性形のルイゾン。マドマーゼル・ギヨタンとも呼ばれた。 ]
#5
[
ギロチンの最初の犠牲者は発明者のギヨタン博士だというのは誤った俗説。この前、池田理代子もテレビで堂々と間違えていたが、彼は帝政期の終りまで存命した。 ]
#6[シャルル=アンリ・サンソン。1688年以来つづく処刑人の一族で、1788年から95年までの間、国王や王妃など多数の著名人の死刑執行を親子で行った。その後は息子アンリが継いだが、処刑人を務めたのは孫のクレマン=アンリが最後。]