初期フェミニズム活動家。革命的共和主義者女性協会の創設者。
パリでチョコレート製菓の家に生まれ、84年に父が死ぬと母と家業を切り盛りして5人の弟妹を育てていた。そこに革命が勃発。89年7月14日、彼女はまさに革命の熱狂の渦中にあって、通りをバリゲードで塞ぎ、バスティーユ監獄を包囲した群集の一人であった。当初からかなり急進的な共和主義者で、以後も革命運動を推進して、パン暴動、ヴェルサイユ行進などに率先して参加。
91年1月、フレロンなど上流階級出身のジャーナリストを誹謗する運動を組織し、王党派やラファイエットを非難。足繁くコルドリエ・クラブに通って会合を傍聴する一方、女性の参加も許されていた数少ない組織の一つである男女愛国者友愛結社に入会した。3月6日、立憲国民議会に押しかけ、女性の主体的な革命参加のために、女性民兵グループの武装と訓練の権利を要求。これが拒絶されると、人権宣言の人の平等の原則が女性には現実には適用されていないとして激しく抗議した。この武装権を巡る論争はパリの女性たちの支持を得て、300人以上の署名を集め、後の運動につながることになった。7月17日、コルドリエ派の一員として、共和政要求の請願書に署名するためにシャン=ド=マルス練兵場に家族とともに赴くが、国民衛兵隊が群集に発砲して蹴散らされ、弾圧を受けて一時投獄されそうになる。
92年、ラコンブと知り合い、彼女とともに八月十日事件に参加。槍を手に街頭に繰り出し、テュイルリー宮殿襲撃に向かうが、途中でサン=キュロット男性に咎められてしぶしぶ武器を譲り渡さねばならなかった。93年、ヴァンデ県で反革命の反乱が起こると、ジャコバン派に鎮圧軍への女性の入隊を申請。結局、断られたために女性のための圧力団体の必要性を痛感して、5月10日、革命的共和主義者女性協会( Socitete des citoyennes republicaines revolutionnaires ) の創設者の一人に名を連ね、その初代代表者となった。この協会は唯一の女性だけで構成された団体で、女性の啓蒙活動や政治参加、救済活動、男性の専横に抵抗する活動を展開。協会員たちの第一の義務は祖国防衛の際には真っ先に武器を取って戦うことであるという、相当過激な、革命唯一の武装した女性クラブであった。
彼女たちは5月31日のジロンド派追放の際にはモンターニュ派を支持してその武力の一端を担い、国民公会を包囲して穏健派追放に一役かった。一方、5月19日に同協会はコルドリエ・クラブと同盟を結んでその下部組織となり、反革命容疑者と買い占め商人の処刑を強く主張。しかし6月24日、1793年憲法には賞賛の意を表して、洗濯女たちの暴動をなだめる役に周る。
7月、レオン自身はアンラージュのシンパであったが、協会はモンターニュ派の強い意向を受けてアンラージェ批判を展開してジャック・ルーを非難。翌月に過激派への粛清が激化すると協会内部でも路線対立が起こり、レオンはリーダーの座をラコンブに譲って活動から離脱した。その後、11月18日、マラーの死後に”人民の友”紙の二代目編集長を自認したジャン= テオフィル=ヴィクトワール・ルクレール(1771-??)と結婚。彼はアンラージェ最年少指導者で、公安委員会批判をして逮捕されそうになったために93年9月か
ら活動を停止していて、恐怖政治が強まる前にパリを脱出。
二人でヴァンデに向かったが、94年4月にエベール派の陰謀に関与している容疑で逮捕され、テルミドールのクーデタまで5ヶ月間拘留される。釈放後、市民生活に戻って母と子供を養った。没年不明。