ルイ十六世の王妃。フルネームは、マリー=アントワネット・ジョゼフ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリ ッシュ。
オーストリア大公マリア=テレジアの第15子の末娘で父は神聖ローマ皇帝フランツ一世。兄にヨーゼフ二世とレオポルド二世という二人の神聖ローマ 皇帝を持ち、フランツ二世は甥。
70年5月16日、ブルボン家とハプスブルク家の政略結婚でかつての敵国フランスの皇太子妃となり、74年に王妃となった。無邪気で陽気な人柄ではあったが軽率で、奢侈にふけって王室費を乱費、それは幾分誇張されて伝わり、民衆を蔑視して国民からは「オーストリア女」 と呼ばれて嫌われ、宮廷内の反オーストリア感情もあって困難な立場であった。81年、王太子ルイ=ジョゼフ=グザヴィエ=フランソワ(1781-89)の誕生の後は母親として無気力・消極的な王に対する政治的影響力を強め、何かと王政に 口を出し人事に手を加えたが、ここでもそれは悪い方に誇張され 「トリアノンの女王」の異名をつけられて、さらに国民の反感をかった。夫婦仲も円満ではなく、美貌の青年スウェーデン貴族フェルゼンとの恋愛などもあって、4人の子は不義の子との噂が根強く流された。なかでも「首飾り事件」といわれる詐欺事件が宮廷を舞台におこると、実際には彼女は無関係で、被害者でもあったにもかかわらず国民の非難を一身にあびた。87年、次女ソフィー=エレーヌ=ベアトリクス(1786-87)を生後間もなく失い、89年、王太子ルイ=ジョゼフが病死するなど不幸が続いた。
89年、三部会召集・バスティーユ牢獄襲撃に始まるフランス革命では、当初から絶対君主政維持のための反革命工作に終始したが、国内の貴族勢力を信用せず、母国オーストリアとの連絡を密にしていた。革命派中の穏健派に属するミラボー伯爵との愛人関係というデマも取り沙汰されたが、あばた顔のミラボーを忌み嫌って協力せず、立憲王制の意義を理解せずに、恐らく唯一の希望であった革命派との妥協の機会を逸した。伯爵が病没するとまもなく、91年、国王一家のオーストリアヘの逃亡を図って失敗(ヴァレンヌ事件)、王権への信頼を完全に失墜させた。さらにオーストリアなど列国武力干渉を要請、92年、開戦すると革命軍の内情を敵に通報し、革命政府と明確に敵対するようになった。
92年8月10日、打倒王政に燃える民衆によってテュイルリー宮殿を襲撃されると、議会に避難したが廃位が宣言され、国王一家は逮捕されてタンブル塔に幽閉された。93年、国王の処刑後は次男の王太子ルイ=シャルル(1785-95?)と引き離され、長女マリー=テレーズ=シャルロット(1778-1851)とともに四階に監禁、その後一人コンシェルジェリ牢獄に移されると、内乱扇動などの数々の罪状で革命裁判所に付さた。中には事実無根の罪状もあったが、結局は死刑判決を受け、10月16日の夕方に処刑された。しかし獄中や公判、あるいは公開処刑に際して常に王妃としての威厳と勇気を失わず、波乱に富み、常に人々の批判と敵意を受けた人生の最期で、人々の同情と尊敬を得たのは運命的な皮肉であった。
革命における彼女の悲劇は絶対王政を信じて疑わなかったことに基因する。彼女にとって母マリア・テレジアの政治は理想であったが、もはや君主の個性や個人的な事情で国家の命運を決めることは許されなかった。母国は彼女にとって最も信頼できるものであったが、神聖ローマ帝国は配下の小邦に共同歩調を取らせることも困難なほどに形骸化しており、冷徹な国際政治の力の掟は家族愛を遥かに超越していたのである。また俗に彼女の浪費が国庫を傾けたと言われるのは間違いであるが、民衆の目には彼女は特権階級の代表として映っており、国家に寄生する貴族の頭目として非難されていた。