マスケット銃 (滑腔式小銃)の一般解説

この時代の軍用銃の主流は、前装滑腔式マスケット銃であった。前装施線銃(=ライフル小銃)や、後装式も、すでに開発されていたが、製造コストの高さや装填し難さから主流とはならず、狙撃兵の武器として用いられる程度であった。

この時代の小銃ほとんどは単発前装式であり、フリントロック式(火打ち石式)と呼ばれる点火方式が一般的であった。多銃身の連発前装式銃もかなり古くから存在していたのだが、たいていは高価なため、それらは狩猟・護身用、もしくは観賞用の武器でしかなかった。
この方式は、1610年頃には登場して、パーカッションロック式(管打ち式)と後装式が組み合わさって軍用小銃に大きな革新がもたらされる1850年代(明治維新前後)まで、長々と世界の標準的主力銃の地位にあった。産業革命が技術全般の革新に影響を与え、マスケット銃を主役から追いやるが、それまで、兵士達はあまり改良を加えられることなかったマスケット銃という兵器を与えられ、戦場に送られていた。以下では①〜⑧のポイントにわけてマスケット銃の特徴などを説明する。




(ガス圧は無煙火薬に遙かに劣るものの)黒色火薬を用いるマスケット銃の発砲時の爆発と噴煙、轟音にはすさまじいものがある。その構造は基本的に大砲のそれと同じで、大小の違いしかない。


 
[ ① 一般的な前装滑腔式マスケット銃の各部名称 ]
図01
床尾板 床尾板の舌状部 銃床の握り 発射装置 照門 照星
グリップ 用心鉄 j,l 叉銃環 k,m 込め矢筒 込め矢 パッチボックス



 
[ ② フリントロックの点火方式の解説 ]
コックを定位置まで引き上げると、板バネ(スプリング)が圧迫される。引き金を引くことで金属が元の形に戻ろうとする力が解き放たれ、コックを圧して先端に付けられたフリント(火打ち石)が当り金に激突し、擦れ合って火花を起こし、これと同時に押し退けられるように火皿が現れるという仕組みで、火花がそこに装填された点火薬に着火する。
着火薬の燃焼によって発生した炎は、火門の中を通って銃身底の装薬(発射火薬)に達してさらなる大きな爆発を誘発する。これによって銃身内のガス圧が高まり、弾丸は銃口方向へと押し出されるように発射される、という原理である。
初期の小銃はかなり複雑な構造で部品も多かったが、改良をへて、当り金と火蓋が一体化されており、部品もわずかになった。火打ち石式には似たような形式のものがいくつかあるが、もっとも単純な構造をしている。 この方式は、信頼性にやや欠けるが扱いが簡単で、火種や火縄の維持が不要であるという長所があって、何よりも安く大量生産に向いていたので、他よりも結果的に効率性が高かった。よってヨーロッパでは火縄式と(極めて複雑な構造の)歯輪式に代わって普及し、主力歩兵銃としての地位を得たのである。
日本でも幕末・戊辰戦争時に一部流入したが、その時点ではすでに世界的に言っても時代遅れの方式で、諸外国の武器商人が古い在庫を騙して売りつけたために流入したに等しかった。このためフリントロック式の日本での評判は芳しくない。(フリントロック式にも狙撃用のダブルトリガーシステムがあるが)板バネを使わない火縄銃の方が、一般のフリントロック式よりも正確な射撃には向いていた。ただいずれにしても日本に入ってきたときには時代遅れの武器だったことは確かだ。





つめねじ コック フリント (火打ち石) 当り金 火皿 当り金用 スプリング



 
[ ③ 信頼性について ]
マスケット銃は、火打ち石の摩耗や、湿った火薬、装填の不手際などによってかなり割合で不発が起こった。一般に晴れた日の乾いた状態で15%、湿っていると30%もの高い確率で不発が起こったと言う。 英軍の1834年の実験によると、正確な不発率は理想的な条件下ですら 2/13 %であったという結果がでている。
また点火薬と装薬が別にあるため、点火薬だけが発火して装薬に達せず、不発に終るということもよくあった。こういった場合、戦場の騒乱と黒色火薬の発する白煙とで装薬の不発に気づかずにその上から装填を重ね、 発砲してしまうと二倍の装薬のなす爆発の反動は凄まじかった。悪くすれば銃身が 破裂して前腕や手、顔に重傷を負い、失明、良くても兵士の肩に強烈な一撃を受け、脱臼や打撲でしばらく腕が利かなくなる恐れがあった。フランスの有名な軍医長ラレイの報告によると、こういった”自滅”が1813年 だけで3千件以上もあったという。また密集隊形であるため、三列横隊の後列がマスケット銃の事故を起こすと、味方の前二列の兵士が火傷や裂傷を負うことも珍しくなかった。 こういう痛い目に合うリスクを避けるためにベテラン兵士達は装薬の量を減らして装填することがあったが、これは弾丸の威力を著しく減じ、 射程や命中性度をより一層悪くしたので、各国の軍隊ではこれを公式には禁止していた。しかし特に口径の大きいブラウン・ベスを使用するイギリス兵は、弾の重量の3分の1という規定の火薬が多いため、かなり恒常的に(装填を素早く行うためと、二重装填による事故防止のため、および強い反動を嫌ったため)装薬を減らして発砲していた。
未熟な歩兵は、装填の際に正しく銃身の底まで装薬を押し込まないことがあった。慌てて装填して発砲した際など、銃弾はどの銃身のどの位置にあっても物理的に問題はなかったが、銃身のなかで火薬がばらけた状態で点火すると、装薬の一部しか発火せずに、未燃焼の火薬が発砲と同時に吹き出し、噴射機のようになった。これは弾の威力をほとんど消滅させ、弾丸は目標の遥か手前に力なく落ち、有効弾とはならなかった。このような射撃は特に見苦しいこともあって、各国の歩兵隊では訓練で厳しくしつけていたが、前述の火薬の湿りなどの影響もあり、すべての装薬が正しく燃焼しないことは、戦場ではよくおきた。この白煙とともに吹き出す火薬粉は、兵士達の視界を一時的に奪うだけでなく、慢性的な目の炎症の原因にもなった。
前装式銃は雨に弱く、火縄銃ほどではないにしろ、一度銃身の中までびしょ濡れになると乾くまで使用不能になった。ひどい場合、火を使って銃身を乾かさねばならなかったが、それができないときには、 双方とも銃剣というか、気合いに頼らざるえなかったのである。



 
[ ④ カートリッジ(薬包)および弾丸の解説 ]
ここでいうカートリッジというのは、現代の薬莢と違って雷管を含まず、単に鉛球と計量済みの一回分の火薬が、油紙、蝋または獣脂を塗った紙、中古紙(しばしば本のページの再利用など)で包まれただけのものである。
使用法はこれを銃口にそのまま入れるのではなく、一般的には兵士は(装薬と点火薬を分けて入れるために)包みを歯で噛み破って使用した。1857年にインドで起こった”セポイの乱”は、この牛脂肪塗りの被包が発端の一つとなったと言うことは有名な話である。また薬包のなかには、銃口に添えて弾の方から押すと包みの逆側が解けるような仕組みになっているものもあった。(包装の仕方による)
鉛球と火薬を入れた後、残った包み紙も丸めて銃口に入れ、込め矢で奥まで押し込むことになっていた。これは”栓”の役割をさせて、弾丸が簡単に抜け落ちないようにする工夫であり、理屈で言えば栓をしていたほうがガス圧も高くなる。紙は発砲の際に燃焼してしまうか、弾と一緒に吹き飛ばされるので問題なく、逆に至近距離ではこの紙玉もある程度の殺傷力を持っていた。

カートリッジは装填時間を短縮するための工夫であり、16世紀以前、火縄銃の普及とともに早くから行われていたと言われる。日本においても”早合(ハヤゴウ)”という名で古くから存在し、雑賀衆など、銃の扱いに熟練した傭兵達が用いていたと言われている。
しかし小銃を主武器とし、長い銃撃戦を行っていた欧州の戦場においてのカートリッジの普及は日本の比ではなく、常備品として、ナポレオン時代の兵士は行軍中も40発から60発分を携行し、会戦ともなるとさらに弾薬箱や弾倉が支給され、ポケットの中にも入るだけ詰められた。しかしそれらもすぐに消費されてしまうため、兵士は別に火薬筒(フラスコ)も携帯し、用意した弾薬が尽きた場合にも備えていた。ただ計量が目分量になるため、火薬筒を用いた装填は時間がかかる。兵士達は、戦場で紙を巻いてカートリッジを作るための計量道具も携帯していた。
一方、弾丸が不足してやむをえない場合は、兵士達は銃口に入る物なら何でも詰め込んで発砲した。カミソリ、真鍮のスプーン、小石、木片、釘・・・。前装式小銃はこういったものでも高速で吹き飛ばすことが可能なので、ごくごく至近距離なら相手を殺傷させる可能性があった。1802年、とある劇場で空砲に詰められた紙玉で俳優が死亡したという事故が起こっているし、1795年にはジョークで味方の兵士が噛みたばこを銃身に詰めて発砲したところそれに当たって運の悪い男が死んだという事例がある。もちろんこれらは極端な例で、たいていの場合は青あざをつくる程度であったが、多少のこけおどしにはなったのであろう。
図03
注:図は”早合”ではなく、欧州の薬包
弾丸は鉛製で、球形が最も一般的である。弾丸に流線形を用いるようになるのは後方部が膨張してジャイロ効果が得られるようにするためであるから後装式の普及したずっと後のことであった。
鉛球は、一見おもちゃの弾のようだが、見た目よりもはるかに強い殺傷力を持っていた。近距離では胸甲の鉄板をも貫き、容易に骨を砕いた。人体へのインパクトの瞬間には一部が圧力で潰れるが、その潰れた面はのこぎりの歯のようになり、体を貫く際に肉を引き裂き、傷口をひろげる効果があった。また鉛球は人体に有害で、貫通しなかった場合には後々中毒症状を起こし、貫通した場合にも抗生物質のなかった時代であるから傷口にバイキンが入っただけで死亡の可能性はかなり高かった。実のところ、銃弾によって直接亡くなる戦死者の何倍もの人間が、現在では死に至らない銃弾の傷から入ったバイ菌で化膿したことがもとで亡くなっていた。この状況が変わるのは20世紀のペニシリンの発見を待たねばならなかったのである。
当時のマスケット銃の小銃弾の初速(800〜1100fps)は、概して音速よりも秒速100メートル以上も遅かったので、「パン」という甲高い発射音は弾丸よりも先に標的に届いた。一斉射撃なら閃光と白煙が見え、(射程が短いため)ほぼ同時に発射音が聞こえて、コンマ数秒後に弾丸の雨が浴びせられるというふうである。一方で弾丸が命中せずに近くを通り過ぎると、風を切る「ブーン」という短い低音が別に耳の近くで突然聞こえるため、兵士達は羽音のように感じて戦場に虫が飛び交っているような奇妙な錯覚を覚えた。跳弾や勢いを無くした弾丸は、「ヒュー」という独特の音で、熟練兵は聞き分けることが可能だった。
この時代、弾丸および口径は銃口番号によって区別されていた。

ケース入り弾薬箱
(腰に付ける)
これは銃口の内径に等しい直径の鉛球の重量で1ポンドを割った値で等級したのである。つまり12番口径は十二発分の鉛球で1ポンドに相当するということで、12番よりも16番の方が内径が小さく、当然比重も軽いため、威力が弱いことを意味した。 当時のイギリス軍の場合、銃身が11番口径(0.76インチ)で弾丸が14番口径(0.71インチ)というのが標準で、この銃身の内径と弾の直径との差、0.05インチ(約1.27mm)が”遊隙(windage)”であった。
遊隙は弾の挿入をしやすくするためのもので、技術的にはこの幅が狭いほど命中精度は上がるが、弾や銃身の製造精密度の悪さも手伝って、百分の一インチ単位での調整は困難で、装填を容易にするために命中精度はある程度犠牲にされていたのが現実であった。後の実験によって、このラフな遊隙が技術的にはマスケット銃の精度を悪くした最大の要因であったことがわかっている。(逆に言えば遊隙の狭い、口径と弾丸がほぼぴったり合うようなものなら、マスケット銃でもかなり精度の高い狙撃は可能であったということである) 一方で、このような偏差を逆に利用するという方法もあった。つまり標的が密集した相手である場合、銃身に2発の弾丸を込めて発射すると適当に適当にばらけるので、命中率が上がるというわけである。



 
[ ⑤ フリントロック式マスケット銃の装填動作の解説 ]
図04
1. 弾薬嚢からカートリッジを取り出して薬包を噛み切り、弾丸を口にほおばる。[#1]
2. コックを一段階引き、当り金を開けて火皿に点火薬(装薬の一部)を入れ、また閉じる。
3. 銃身を垂直に置き、銃口から装薬(残りの火薬)を注ぎ、次に弾丸を挿入する。
4. 込め矢を引き抜き、これで装薬と弾丸を銃身の奥まできっちり押し込む。[#2]
5. 込め矢を元の位置に戻し、コックを最大限に引いて発射装置を整える。
6. 射撃姿勢を取り、照門の窪みに照星が来るようにして照準を定め、引き金を引いて発砲する。
[#1] 薬包の種類によっては、噛み切らずに、火薬の詰まった方を下にして押し込むだけで、包みが自然に破れて装填できるものもある。カートリッジがない場合は、弾丸と火薬筒を使用する。
[#2] 弾丸は銃身のどの位置にあっても物理的に威力は変わらないが、押し込むことで装薬を火門の位置まで到達させる。弾薬が戻ってこないように薬包の包みを最後に詰めて栓にする場合もある。



 
[ ⑥ 発射速度 ]
複雑な操作手順(細かく見ると17ステップほどある)にもかかわらず、エキスパート達の主張するところによれば、良く訓練された兵士は毎分5発は撃つことができるとのことで、理論上は6発も可能ともいうが、当時の戦場では通常の場合は毎分2~3発であったと考えられている。
実際は、火打ち石の摩耗や火薬の湿り、装填のミス等での不発、連続して12発以上撃つと極端に暴発し易くなり銃身に水をかけなければ持てなくなるほど加熱されることなどから、連続射撃は困難だった。なお戦場において兵士たちはこういう場合、銃身の外側 に小便をかけて冷やした。 1分間に実際に5発撃つ技術は、一部の熟練兵に伝えられていて、賭の対象として競技がしばしば行われた。 熟練兵は、速射をするために操作手順を短縮して、独自の方法で行った。よくあったのが込め矢を使わないという方法で、詰め物と一緒に弾丸、火薬を入れ、銃尾を地面にガンと強く叩きつけてこれらを銃身の底に一瞬で落とし、次に発砲するという荒っぽい方法である。また込め矢の反対側を削って、両方の端を使用できるようにするという工夫もあった。ただ前者は衝撃で銃の点火装置が壊れる恐れがあり、後者は銃身にひっかかった時には抜き難いという問題点もある。そもそも例え急いで毎分5発撃てたとしても、兵士は装填動作の方に集中するために、狙いはおろそかにならざる得ない。5発の内の2発ぐらいは狙い自体が不正確という状態であろうし、射撃後はカートリッジ紙の燃えカスや火薬のスス汚れを掃除することが必要になる。戦場ではほとんど守られてはいなかったが、規定では50発撃ったら銃身を洗浄することになっていた。 現代的感覚での発射速度は望むべくもなかったのである。
また速射はしばしば事故を招いた。暴発は言うに及ばないが、他で多いのが込め矢を銃身に差したまま忘れて発砲することで、込め矢は弾丸と一緒に高速で飛び出るが、この棒は次の装填に必要である。戦場ではシャレにならない。早いスピードでの射撃と装填動作を持続することは、人間である以上、疲労が邪魔をして不可能である。また前述の銃身の加熱の問題があるので、一般的には長時間の銃撃戦でも、適度な間隔をあけて射撃するのが普通で、望ましいとされていた。
個々の射撃速度を向上を実現できないながら、この時代でもそれに代わる解決策があった。500人の一個大隊が22インチ(55.9cm)間隔で横に並んで二列の横隊を組み、153ヤード幅の隊列から射撃を行なうと、1000発から1500発の銃弾を1分間に発砲できる計算になる。これは1分間のあいだに1ヤード(91.4cm)幅に6発から10発も撃ち込める ことになり、 個々の発射速度の遅さは、隊列全体で射撃することである程度はカバーしていたというわけである。これが密集隊形が火砲の被害に対して脆く危険なにのもかかかわらず、横隊戦術が利用され続けた理由の一つであった。
歩兵隊(横隊および縦隊、希に方陣)の射撃では、一般に最初の射撃だけが、全体での一斉射撃となり、次弾以降は、分団ごとや列順ごとの部分的一斉射撃を調整して行うことが多かった。これは部隊としての発砲と装填との間隔を狭めるためで、普通に一斉射撃を行えば、1分間に2回の斉射音しか響かないが、分割して発砲すればこれを8回でも12回にもできる。これによって(発射される弾数に増加はなくとも)見かけ上、発砲速度は短縮されようになるので、敵の突撃のタイミングを騙し、常に発砲音が聞こえることで敵味方に対しての心理的効果が期待された。後述の理由で各個射撃は有効性が低いと認識されていたので、部分一斉射撃の方が、有効であると当時の人は考えていた。




 
[ ⑦ 有効射程と命中精度 ]
ナポレオン戦争における射撃は、兵器の性能もさることながら、「下手な鉄砲、数撃ちゃ当たる」が、基本原則であったため、個々の射撃は散兵・狙撃兵など特別なケース以外ではほとんど重要視されていなかった。戦列歩兵はしばしば照準すらせずに発砲したし、(連隊の経費を削減すると連隊長の収入を潤すので)各国の軍隊は歩兵の訓練用の銃弾をケチってほとんど射撃訓練をしなかった。狙撃兵はライフル銃が配備される傾向にあったので、一般兵の持つマスケット銃は命中精度より、操作性、装填速度、銃剣としての利用に重点がおかれていたのが実状だったわけである。 (この戦術のおかげでマスケット銃の兵器としての欠点は無視されたが、 皮肉にも兵器性能が向上すると戦術の転換をおくらせる結果になった。)  純粋な兵器性能は現代から見ればかなり見劣りのするものであり、銃剣に頼らざる得なかった実状が垣間見れる。またこの肉薄戦闘に準備するために、標準的な三列横隊では最後列は通常は発砲しなかったので、兵員の2/3しか発砲しなかった計算になる。
 
当時行われた実験による主要マスケット銃の固定目標に対する精度と距離の関係は以下のようになる。なお各表は条件が同じではないので単純比較はできない。


表Ⅰ
W.ミュラーの実験結果(1811年)
「Elements of the Science of War」 より
銃 : ”ブラウン・ベス”(英)
標的 : 騎兵サイズ

  表Ⅱ
ピカードの実験結果
「La campagne de 1800 en Allemagne」より
銃 : ”シャルルヴィル”(仏)
標的 : 1.75m × 3m

  表Ⅲ
プロシア軍の実験結果

銃 : 1809年型”ニュー”(普)
標的 : 1.83m × 30.48m
      (6 ft. × 100 ft.)
距離 熟練兵 一般兵
100 yards 53% 40%
200 yards 30% 18%
300 yards 23% 15%
距離 命中率
75m (84yd) 60%
150m (164yd) 40%
225m (246yd) 25%
300m (328yd) 20%
距離 命中率
100歩 (76.20m) 2/3 ~ 3/4
200歩 (152.4m) 1/3 ~ 1/2
300歩 (228.6m) 1/6 ~ 1/4
(備考: Yard = 0.9144m,
1yd. = 3ft. )
  (備考: 歩[pace] = 2.5 ft.)

表Ⅳ
プロシア軍の参謀ゲハルト・フォン・シャルンホルストの実験。中隊200名が横隊を組んで正面に(各個)射撃した際の命中率(命中数)  「Imperial Bayonets」より

銃の種類 距離 (標的は射手と同じ歩兵中隊サイズ)
75 m 150m 225m 300m
Altpreußischen Gewehr M 1782 46% (92/200) 32% (64/200) 32% (64/200) 21% (42/200)
同 (三角銃尾を付けて) 75% (150/200) 50% (100/200) 34% (68/200) 21% (42/200)
Nothardt Gewehr M 1805 73% (145/200) 49% (97/200) 28% (56/200) 34% (67/200)
Neupreußischen Gewehr M 1809 77% (153/200) 57% (113/200) 35% (70/200) 21% (42/200)
Charleville 76% (151/200) 50% (99/200) 27% (53/200) 28% (55/200)
Brown Bess 47% (94/200) 58% (116/200) 38% (75/200) 28% (55/200)
Russian musket M1798 52% (104/200) 37% (74/200) 26% (51/200) 29% (58/200)

(備考: 近距離が単純に命中率を上げない理由は、マズルジャンプと、後述の弾道の弧の軌道の影響と考えられる。これを反動を受けやすい銃床の形状の不備と考えるか、射手の知識不足と考えるかは微妙なところだ。この実験の目的は、もともと戦列歩兵の射撃の効果と、散兵の個別射撃の効果を比較測定するものであり、銃個別の性能を表しているとは若干言い難い。参考資料として見てほしい )


熟練兵の経験に基づく主張や、上記のデータから判断すると、有効射程(=”有効射程”とは命中率が50%以上の距離と一般的に定義されるもの)は150メートルが限度いっぱいというところで、W.ミュラーの主張では概算では、命中率は100ヤードで50%というのがマスケット銃の固定目標に対する性能であった。(ミュラーの実験は標的の大きさがもっとも小さいのに注意。)
しかしこれは理想的な環境での理論上の銃の性能を示しているのに過ぎず、実戦での疲労やストレスの中で、動く敵兵を確実に殺傷するには、もっともっと近づかなければならなかった。実際に当時の将校たちは兵士たちに、「敵兵の白目が見えるまでは撃つな」と いうことを教えていたのであるから どんな距離で戦われていたかが容易に想像できよう。
マスケット銃自体の最大射程は、400〜450ヤード程度はあったと見られているが、全く効果がないという判断から300歩(250ヤード)以上での発砲はしないように歩兵士官は命じられていた。同時代人の散兵戦術の専門家G.ハンガー大佐は、経験則から(通常のマスケット銃で)「150ヤードから放たれた銃弾に当たる兵士はよほど運が悪い者で、200ヤードから放たれた銃弾を目標に当てるのは、月を狙って弾が当たるように願うのと同じことだ」と言っている。(有効性
ミュラーは不発や疲労、戦場でのストレス、対象が移動標的であることなどを考慮して、実戦に近い環境での命中率は100ヤードで約15%と推定している。 これは妥当なところであろう。




 
[ ⑧ マスケット銃の有効性 ]
小銃が性能通りに機能し、たとえ弾が予想の数だけ命中していたとしてもそれが有効な打撃となり、敵を死傷させることができるかは別の問題である。軍服の端やコート、帽子に穴を開けるだけのことはよくあったし、跳弾や装薬を減らしたりして威力を失った弾丸は、しばしば軍服を貫通することすらできずに、兵士を失神させるだけにとどめることがあったことが当時の証言からわかっているからだ。また戦場では多くの障害があり、実験のような環境は現実離れしていたから、実戦での結果と照らし合わせる必要があり、⑦で見たように、実験の標的は非常に大きいものであったので、銃(とその運用方法)の有効性は別に計測する必要があった。
そして戦場での実際の成果を計算してみると、実験結果を大きく下回っているということが早くから知られていた。
ハンガー大佐の試算では1000名が同程度の敵に対して60回射撃した場合で、300名の負傷者がでるということであった。これはつまり200発に1発が有効な弾丸であるという計算になり、 理論上のこととはいえ、それはたったの0.5%にすぎない。 同じくロケロルは、実戦での有効な弾丸は0.2%から0.5%であるとし、R.ヘネガンは自著の半島戦争の記録でヴィトーリア会戦において使用された3,675,000発から約8,000名の死傷者が出たとして、459発に1発、 たった0.2%の有効弾であったという数字をはじき出している。 一方で英軍の火力を研究していたミュラーは、英軍の射撃に適した二列横隊はより高い能力を持っていたと主張し、タラヴェラ会戦の30,000発で1,250~1,300名を倒したという数字から4%の有効弾率を示していて興味深い。 (この点は別項で説明する)

もちろんこれらは実戦で使用された弾薬数と死傷者を単純比較したものであるから、参考とする会戦によって大きなばらつきがでるのは当然で、著名なものだけでも以下のような数値の差がある。


Hanger Roquerol Henegan Muller Guibert Gassendi
0.5% 0.2 ~ 0.5% 0.2% 4% 0.2% 0.033%
Piobert Decker Jackson Napier Hughes Anonymous
0.01 ~ 0.03% 0.01% 0.5% 0.33% 3 ~ 5% 0.1%


これらが現実的なマスケット銃の有効性を示す数値であるとすれば、1分間に三発ずつ休みなく撃ったとして、たった一人の人間を死傷させるのに23分から82時間15分の時間がかかることになり、500人の大隊が同様な敵に対して一斉射撃した際には一回毎に0.05人から10人の死傷者がでることになるのであって、計算上の平均値とはいえ、非常におかしな結果となってしまう。経験則では、ハンガーは一人を殺傷させるのに最大7発の発砲が必要だったといっており、プロシア軍の士官は10発という、これらは実験での銃の性能と比べても明らかに下回る成績であるといえる。

しかしこの実験と実戦における40倍近い差にはいくつかの理由が考えられた。

まず第一に最初に言ったように兵士たちは正確な射撃よりも素早い射撃を心がけており、しばしば個々に狙いを定めることなく敵部隊の真ん中に向けて漠然と発砲するのを習慣としていた。特に戦列歩兵は、個別の目標を狙うというよりも射撃方向を隊列で合わせるように訓練されていた。(一斉射撃で弾丸の壁をつくって敵にぶつけるような発想。戦列歩兵の射撃は個別の敵を倒すことよりも、敵の前進を阻止するか、敵の士気を挫くことに主眼があった) このような方法により命中弾が重複していたとすれば、当然、見かけ上の有効弾率は実際よりも下がることになる。さらに戦闘中の密集隊形は射撃に不向きで、後列はどうしても真っ直ぐ狙いを定めにくかった。もし照準自体が不正確であったとすれば、有効弾率の低下は、戦術の問題であって、銃の性能が原因とは言えないことになる。
 
第二に、黒色火薬を使ったマスケット銃の初速は遅かったので、その弾道は常に大きな弧を描き、空気抵抗と重力によって、直線で見た照準線よりもはるかに手前で弾丸は地面に落ちていた。また逆に15度以上の仰角を持たせて発砲すると、弾丸は効力を失い、今度は敵兵の頭の上を越えていくことになった。 図 歩兵士官たちは、効果的な射撃にするためにできるだけ敵をひきつけてから一斉射撃を開始したが、実際には有効射程のすこし内側(80〜160ヤード)というのは、弾丸がもっとも高く上がる距離であった。弾道の弧を知らずに、至近距離で水平の照準線のまま発砲すると、弾丸は狙いよりも上方に飛んでいって当たらなかった。 こういったことを将兵は往々として知らず、高低差(射手と標的の間に高低差がある場合は、初速の遅い小銃で射撃するのはさらに困難になる)や距離を考慮に入れた射撃法の知識が不足しており、訓練も十分ではなかった。敵兵を目の前にして怯むと、本能的に恐れから狙いは上に向きがちで、発砲のときの衝撃と、銃口を上に向ける反動(マズルジャンプ)も働いて、弾丸ははるかかなたに発射されることが多かったのである。

そして第三に、当時の鉛の弾丸が粗製で形状にバラツキがあったことである。そういう弾丸を楽に装填するためには弾丸と口径との差、”遊隙”にかなりの余裕をもたせる必要があったが、これらは共に精度を落とす要因となったのである。弾丸の変形、形や重さの不均等は、変化球となって弾道を狂わせる。余計な遊隙は弾丸がガス圧で銃口から排出されるときの方向にブレを生じさせ、初速も減じるので、集弾率を悪くした。1740年代の実験で、すでに遊隙のゆるいマスケット銃と狭いものとでは、集弾のサークルは2倍程度差があったことがわかっていた。銃を固定した実験でも100ヤード先では弾の分布は120センチの円に達したから、射撃実験ではかなり大きな標的を目標としているのはとは違って、実戦でこれほどの偏差があれば結果に大きく影響したということは容易に想像できる。

さらに第四に、黒色火薬の発する白煙はすぐに兵士たちの視界を奪ってしまうので、散兵のように単独で行動するならいざ知らず、隊列戦闘における射撃では、二発目以降は正確な照準など不可能であったというわけであった。
第五に、銃身の歪みと訓練不足が指摘される。熟練兵が指摘するように、歩兵のもつマスケット銃の銃身の多くは製造段階で最初から少し曲がっており、銃剣戦闘の結果としてさらにそれは助長された。小銃を槍のように使って人体に突き刺したり振り回したりと乱暴に扱うなら、それが精密な射撃にも利用できると期待するのは酷である。もし銃身が曲がっていても、その曲がりを考慮して照準すればいいのだが、前述のように予算の都合で実弾や的を使った射撃訓練は滅多に行われなかったので、兵士達は自分のもつマスケット銃の弾道特性を理解することなく実戦を戦わざる得なかった。

標的を定めて狙わない上に、煙で標的をほとんど見えもせず、銃弾がどのくらいの高さで、どっちの方角に飛ぶのかも知らないというのでは、当たるはずはなかった。つまり兵士の多くは、運を天に任せ適当に撃っていたというのが実態だったのである。このような戦場の状況であっては有効性の著しい低下も理解できるというものであろう。

最後に、最近でも議論を呼んでいる報告であるが、歴史学者(米軍准将)S.L.A. マーシャル[#3]が第二次世界大戦の硫黄島での戦闘直後に実地調査した結果、兵士たちの中で敵兵に対して発砲したのはその僅か15~20%に過ぎず、残りは消極的関与あるいはただそこにいただけで全く戦闘に関与していなかったというのである。
これは殺人に対する人間の根強い抵抗感の現れであって、近接戦闘で本能的な行動が妨げになっていたという良い例である。米軍に限らず、当時のやり方の短期間の訓練では、技術は習得できても簡単には精神的規制を解くことはできなかったのである。現 代において、心理学と条件反射に基づいて軍隊の訓練メニューがつくられているのもそのためである。
しかるに、19世紀において、ほとんど訓練を受けた事も 無い兵士たちが、肉薄した戦闘に臨まなければならなかったとしたら、果して彼らは容易く人を撃ち殺すことができただろうか?
南北戦争の記録では、回収された2万7千丁のマスケット銃の内、1万2千丁以上が装填されたままで、しかもそのかなりの物が複数発以上装填してあったという。つまり敵を目の前にした多くの兵士たちが、装填し銃を構えたものの引き金を引くことができず、空しく装填作業を繰り返していたというわけである。最高で一丁に23発もの弾丸が詰め込まれていたというから、兵士たちの一般社会での健全な心理的障壁がいかに大きかったかを物語っている。この殺人マシンとしての兵士の機能不全を含め、それらもろもろが兵器の”有効性”を下げていた原因ではないかと推論できるのである。
[#3] 「Men Against Fire: The Problem of Battle Command 1947」マーシャル氏の主張とデータには異論や批判を唱える識者も多いが、兵士の心理的規制が戦場でも働き有効性を損なうことに一石を投じたという意味で画期的で、興味深い論点である。

結論としては、この時代の”主力銃”の実戦での有効性はまったくもって低いものであった。しかし有効弾が少ないという事実は、逆に言えば、いかに無駄な状況下でも発砲していたか、いかに大量の無駄弾を浪費していたかということを意味する。結局、それは兵器としての性能のみによるものではなく、戦術と訓練、産業技術による結果だったのである。これらがすべて改善されるのには20世紀まで待たなければならなかったから、戦場では銃剣突撃による心理的効果に期待するところが多いという状態が続いていたというわけであり、敵を殺すことよりも敵の士気を打ち崩すことに重点が置かれていたわけである。


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