大砲 (前装滑腔式野戦砲)の一般解説
15世紀に登場してから1860年代までの大砲は、ほとんどが前装式で、幾つかのマイナーな技術革新はあったが、マスケット銃の時代が終わり、産業革命と発明の時代が到来するまでは、性能に特段、変化らしい変化がほとんど見られないにもかかわらず、単純な構造のまま使われ続けていた。
当時の大砲は鋳造法によって造られていて、その製造方法は教会の鐘を作るときに用いられていた技術が発展したもので、大砲の材質は主に青銅製か鉄製だった。ただし青銅という場合、実際の金属材質は真鍮で造られていたのだが、慣例上、”青銅製”として認識され、そのように呼ばれていた。この青銅は時に”砲金”とも呼ばれるが、こういった言い回しをしていたのは銅が高価な金属であるためである。後装式も発想自体は前装式とほぼ同時期に生れていたが、砲身と尾栓の強度が材質と製造能力の問題で、耐久性が非常に悪く、閉鎖機にも難があって、広く実用化されるまでには技術的な進歩を待たねばならなかった。前装式野戦砲の場合ほとんどが滑腔式で、後期の大口径砲には施線されたものもあったが、それは例外的である。
ナポレオン戦争において野戦砲は戦場の重要な攻撃力で、しばしばその存在が勝敗を左右した。マスケット銃と同じく、その命中率そのものは低かったが、(マスケット銃の場合とは違って)見かけ以上に砲弾は強い殺傷力をもっており、破片でも致死性の重傷を負わせることができた。また近距離で散弾を放った場合の効果も絶大で、(さほどの殺傷力はないが)榴弾の炸裂が与える心理的効果は無視できないものであった。この時代の野戦砲はほとんんど人力で動かしており、砲撃配置につける準備だけでも相当な時間と労力を必要としていた。そのために配置場所は戦術上の重要な要素であり、ひとたび敗れれば退却の際には戦場に放置せざる得ないため、戦略上も重要な要素であった。以下では大砲、砲弾、砲撃術などのポイントにわけてその特徴などを説明する。




博物館などでは青銅のままの朽ちた砲身が飾られていたりするが、当時の野戦砲は写真のように砲身も砲車も、錆を防止し、部隊・国籍を識別するためにペンキで塗られていた。また真鍮は黄銅ともいい、錆びてない色は金色に見える。


 
[ ① 野戦砲の種類と分類 ]
この時代の大砲は、主に3種類に大別され、さらにその分類はその発射する砲弾の重さか口径の長さによって区分されていた。
すなわちカノン砲( Cannon )、臼砲( Mortar )、榴弾砲( Howitzer)、の三種類で、カノン砲とは、定義上、砲身の長さが口径の12倍以上のものをさし、それよりも短いものが曲射砲に分類されるが、箱状の台座に固定されたものをその臼型の”形状”から臼砲とし、砲車に搭載された短砲身砲をその”用途” から榴弾砲と呼ぶ。


カノン砲

臼砲

榴弾砲
なお臼砲は野戦砲とはいっても、町や城郭といった固定目標用の大砲で、命中精度も特段低く、会戦で使用されるケースは極めて稀であった。
カノン砲が石弾や鉄球といった実質弾を直接撃ち込むことによって目標を破壊する兵器なのに対して、臼砲は実質弾を目標の上に放り投げ、落下する砲弾に目標を破壊させる兵器で、榴弾砲は目標の上空で榴弾あるいは榴散弾を炸裂させることで、敵兵士を殺傷する兵器であった。つまりカノン砲の威力はその”砲弾の初速”に比例し、臼砲の威力は発射する”砲弾の重さ”に比例し、榴弾砲の威力は発射する砲弾に装填されている”火薬の量”に比例するということである。
カノン砲が発射時の初速を可能な限り最大にするためには、(火薬が変わらないのであれば)装薬が爆発して生じるガス圧が、砲腔のなかで砲弾を押し出そうとする時間を、より長くすればいいということになり、より長い砲身が必要とされた。このため一般に、カノン砲はその口径の12倍から24倍もの長さの砲身を備えていたのである。逆に臼砲や榴弾砲には速い初速は必要ないので、短砲身でできるだけ大きな砲弾を発射できる大口径の砲身が取り付けられ、十分な仰角が取れるように設計されていた。
(ただし例外的に、ロシア軍にはカノン砲と変わらない長砲身の榴弾砲という特殊な兵器もあった)
カノン砲は砲弾の重さによって分類される。それはつまり12ポンド砲とは(通常)12ポンドの重量を持つ砲弾を使用するように設計されているということである。逆に榴弾砲と臼砲は、口径の大きさ(主にヤード法 )によって、10インチ砲などと区分されていた。
材質や形状(特に砲身の長さ)が同じなら、基本的にこれらの数字の大きいほど、威力の強い野戦砲であることを示している。より重たい砲弾を発射できるカノン砲ほど、砲弾の速度が遠距離でも速く、よって威力も強いことが、当時でも実験によって確かめられて、広く認知されていた。曲射砲の場合も前述の通り、大きい砲弾ほど(砲弾の材質が同じならば)重たいわけであるから、威力が強いことになるわけである。


なおこの時代の度量衡は各国で不統一であったため、イギリスのポンド(0.4536kg)と、革命前のフランスで使用されていたポンドに相当するフランスの単位リーヴル( 0.4895kg, 後に便宜上500gとされた)とでは、かなりの違いが見られた。イギリスのポンドを1とすると、フランスは1.08、オーストリアは0.83に相当する。これによって同じポンド砲でも、フランスの大砲の方がより強力で、オーストリアの大砲の方がより非力である。各国あるいは各地で製造される大砲は口径などに微妙な食い違いがあるということは、口径、威力や砲弾の大きさに反映し、鹵獲砲弾の使用などに問題を生じさせた。(別項でも解説)


 
[  ② 一般的な前装滑腔式野戦砲の砲身の各部名称 ]
大砲は大きく分けて砲身と砲車、および前車という3つの部分からなる。下の図表は前装滑腔式の鋳造製大砲の砲身の基本的な構造の各部名称を示している。形状はデザインによって細部は多種多様であるため一例に過ぎないが、構造的にはどれもこのようになっており、曲射砲(臼砲と榴弾砲)も砲身の長さが違う以外は同様の構造である。
砲身は、滑腔式であるから砲腔には溝が刻まれておらず、その最後尾にある砲尾部には高架ネジを取り付ける口がついており、このネジを調節すると大砲の射角が変更できて射程を調節できた。また鋳造製の砲身は(熱による)膨張伸縮を繰り返すと割れやすくなるので、これを防止し、剛性を補強するために錬鉄製のリングで締め付けるような構造になっていた。砲耳の位置は、砲身の中心線よりもやや下部に取り付けられるのが一般的なのだが、フランス軍とアメリカ軍の大砲では、砲耳が中心線とほぼ同じかやや上部の位置に取り付けられていたのが特徴である。



1 砲口
( Muzzle )
2 前身
( Chase )
3 第二薬室覆い
( Second Reinforce )
4 第一薬室覆い
( First Reinforce )
5 砲尾部
( Cascabel )
6 口径
( Calibre )
7 高架ネジ取付口
( Elevating Screw Mount )
8 鈴玉/乳頭状 突起
( Cascabel Neck )
9 砲腔
( Bore )
10 吊り手
( Dolphins )
11 火門
( Vent )
12 砲口凸縁と環状帯
( Astragal and Fillets )
13 砲耳
( Trunnions )
14 鉄製リングとオジー
( Ring and Ogee )
15 砲尾
( Breech )

( なお吊り手をドルフィンと呼ぶのは、当初、イルカを模した飾りだったからである。吊り手は砲身を牽架するといきに用いた )









 
[ ③ 大砲の材質についての一般論 ]
砲身の材質は鉄か真鍮製で、真鍮(ブラス)は銅と亜鉛の合金であるが、銅と亜鉛の割合によって性質が変わるという特性がある。また真鍮は鉄に比べて扱いやすく、鋳造が容易で、柔らかく弾性があって耐久力に優れていた。比重は真鍮(8.43)のほうが鉄(7.86)よりも重たいが、金属のもつ弾性が砲身の破裂を防ぐ役割を果たしたので、砲身の厚みをより薄くすることができ、大砲全体の重量は真鍮製のほうが逆に軽くなったので、こういった特性が大砲の素材として向いていたわけである。ちなみに青銅(ブロンズ)は銅と錫の合金で、青銅の比重は8.9前後、融点は約800℃である。真鍮は高価な銅を節約できるだけでなく、金属の性質も向上させ利点が多かったということである。真鍮の無塗装の色は金色で、真鍮は黄銅の一種だが、身近では五円玉のそれである。
錬鉄技術が発達するまで、かなり長い間、真鍮が”野戦砲”の素材として主要な地位を占めていたが、鉄は製造コストが格安で、硬くて磨耗にも強く、融点が真鍮(900℃)よりも鉄(1530℃)は高いので、熱にも強いという特性もあった。このため連続使用という点では鉄の方が材質として有益で、装薬の量を増やすことで可能だったために射程も長かった。実際、真鍮製の大砲では1日に120発が限度で、砲撃による熱で砲身が変形して使い物にならなくなる。(信じられないことであるが大砲は発砲の熱で柔くなり、加熱しすぎると自身の重みで曲がった) しかし鉄製の大砲では1日に360発が可能で、それ以上の砲撃であってもビクともしなかったのである。このため産業化の進むイギリスでは、1811年から曲射砲は鉄製のものに切り替えた。
鉄製の大砲は、艦載砲や攻城砲といった巨大で大型の口径をもつ重砲に主に用いられた。野戦砲は人馬で牽引して長距離を移動しなくてはならないので重量に制限があったが、船に積む大砲や要塞に固定される大砲はそれが問題にならなかったため
鉄製の方が好ましかったわけである。



 
[ ④ 一般的な野戦砲の砲車の各部名称 ]
砲車とは砲身を載せる構造のことで、車輪がなければ砲架ともいわれるが、この時代の大砲には駐退機がないので、野戦砲以外でも車輪がついて、反動を大砲全体で受け止めて駐退と復座は車輪を用いて行われていた。この時代の砲車は、要塞砲を除けば、ほぼすべてが木製で、車輪は金属製プレートで補強されたものであった。一般に砲架の形式によってダブルブラケット型(箱型脚)と、ブロックトレイル型(棒型脚)の2種類にわけられる。
ダブルブラケットとは、2本の腕木が砲身を挟むように配置された架尾の形式で、一方、ブロックトレイルとは1本の木材で架尾ができているもので、砲身はそれに載るような格好となる。
前者は16世紀の早い段階に登場した古い形式で、後者は1778年にイギリスのサー・ウィリアム・コングリーヴが開発し、1792年に英軍の騎馬砲兵隊で初めて制式採用されたものである。後者の利点はずばり軽量化で、無駄に重い割りに強度が不十分であったダブルブラケット型にくらべて、十分な強度が得られ方向の修正も容易なブロックトレイル型は、高角射撃には不向きであるという欠点があったが、一桁の仰角しかつけないカノン砲ではこれは問題にはならなかったので、ナポレオン戦争以後、開脚型(二又脚)が登場するまで、主要な砲架の様式となった。
当時の砲車の車軸には衝撃を吸収する装置はなかった。このため重量を支える車軸は折れやすく、野戦砲の重量限界となっていた。舗装道路の少ない当時は、移動は容易ならざるものがあり、起伏のある地形では立ち往生することもしばしばで、軍全体の移動スピードに影響を与えると言うことで、18世紀後半に大砲の機動性重視、重砲不要論がでたのはこのためである。
なお車輪は直径が20インチ以上のものを”ホイール”、それ以下は”トランク”と呼ばれていた。
海軍が使用した大砲の砲車などの例外を除いて、一般的に砲車は侵食を防ぐために塗装がほどこされていて、各国ごとにカラースキームが公式には決まっていた。イギリスでは基本色が灰緑色で、金属部品は(やや赤みがかった)黒色で塗られ、フランスでは基本色が濃いオリーブグリーンで、これは黄土色と黒色のペンキの比率が80:1と決まっていた。プロシア軍は明るい灰青色が基本色で、神聖ローマ帝国では黒色と黄色か、黒色と赤色の組み合わせ、イタリア諸邦の中には基本色が赤色で黄色のデコレーションという派手なものもあった。もちろん単にテレビン油(松脂油)を塗ってコーティングしただけのものもあり、基本色はあくまでも基本で、実際は国だけでなく部隊によっても、時期によりまちまちだった。



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