各国の主要マスケット銃
ここではフランス、イギリス、プロシアら、ヨーロッパの主要な軍事大国であった列強国の制式小銃を、ナポレオン戦争の時期の兵器を中心に、個別に紹介する。いくつかの武器は、革命のずっと以前からほとんど変更無く使われていものがあるが、それらも新しいバージョンで記している。ただそれはその年に開発されたというわけではなく、単にモデル年号というだけであるので、誤解しないように。
表記されているデータはあくまでも目安であり、小数点第二で四捨五入してある。多くはバリエーションによって差異がある。




性能の低さ、有効性を損なう戦術が採用されていたにもかかわらず、戦場での最大の脅威は小銃弾による負傷だった。当時の医療水準では、致死性のない銃創であっても、かなり後で化膿によって死亡するリスクがかなり高かった。


 
[ フランス編 ]

図05
図06
図07



(備考:上図①②③は同縮尺) 銃身 全長 口径 重量 弾丸 銃剣
① Ⅸ年型/ⅩⅢ年型・シャルルヴィル 113.7cm 151.5cm 17.5mm 4.375kg 20.6g (22番) 40cm
② Ⅸ年型/ⅩⅢ年型・ドラグーン・マスケット 103cm 141.7cm - 4.275kg - -
③ Ⅸ年型/ⅩⅢ年型・カービン銃(滑腔式) 85cm 115cm - - - 48.7cm
④ ⅩⅢ年型・騎兵ピストル 20.7cm 35.2cm 17.1mm 1.269kg 14.6g (31番) n/a


 フランスのスタンダード小銃・”シャルルヴィル”
ヨーロッパの陸軍大国であったフランスは、1717年に最初にフリントロック銃を制式小銃とした国として知られる。以来、1728年、1763年、66年、74年と改良・改訂を重ね、ソケット式銃剣、鉄製込め矢、およびそれに相応しい銃口形状、銃尾と、より近代的なデザインとなった。革命・ナポレオン戦争の時代におけるフランス軍の制式小銃のスタンダードモデルは、その完成型である、1777年モデル小銃で、性能という点では、この銃も格別にすぐれた点はなかったが、1830年代まで長期間にわたって用いられ続けることになった。
この1777年型は主工場の地名から別名”シャルルヴィル (Charleville)”と呼ばれ、この名で広く知られている。シャルルヴィルの名前は、しばしばフランスのマスケット小銃の総称としても用いられる。1801年と1805年にもマイナーチェンジがあり、(旧革命暦より)Ⅸ年型 とⅩⅢ年型の2パターン存在し、 ナポレオン戦争の期間だけで2百万挺以上もが大量に生産された。またボーマルシェなど理想主義者の手によって革命前夜のアメリカに20万挺以上が輸出されており、さらにそれらをもとにして新大陸のスプリングフィールドなどで50万挺以上がコピー生産され、独立戦争や米英戦争で利用された。またイギリス以外の欧州国の多くも、シャルルヴィルを模倣している。

この1777年型は標準的な性能のマスケット銃で、口径(0.69in.)が小さく弾丸が軽いので、反動が小さく、有効射程が少し長い。15℃の仰角をつけると1400ヤードも最長飛距離が出せた。(ただしこれはそこまで飛んだというだけで殺傷力を維持していたという意味ではない) また弾丸が軽いことで重力の影響が少ないため、弾道が人の高さぐらいで比較的安定する( 表Ⅱ.参照 )という特性もあった。競合する”ブラウン・ベス”が口径が大きく重い弾丸を使うのに対して、軽い弾丸は威力の面で劣るという意見もあるが、戦場での負傷は、致死性ではなくても当時の医療・衛生状態では結局死につながり、戦傷死に至らせることが多かったので特に短所にはならず、特徴の違いこそあれ、代表的な二つの小銃に性能の点でそれほど違いがあったわけではない。
外見で目立つ特徴は、全長が151センチ超と(古いロング・ランド・パターン以外の)制式小銃のなかでは一番細長いことである。特に銃身が長く、これは銃身を短く修正していっていた他国の方針とは逆行している。 しかし細長いこの小銃は折れやすかった。イギリス兵は敵兵の武器を取り上げると、地面に叩きつけて鋳造真鍮製の銃身と木製の銃床を簡単にへし折ることができた。これは白兵戦では好ましからざる特徴で、ベテランのフランス兵は、接近戦では銃剣戦闘よりも、むしろサイドアームの方に信頼を置いた。彼らは銃剣が”こけおどし”であることをよく知っていたのである。 込め矢は、一時、形状が垂直型に変わったが、戦訓から前の方が使いやすかったということで、77年モデルではトランペット型に戻され、ほとんどはこの先太り構造である。
フランス軍の使用していた粗製火薬のせいでススが大量に出るため、50回撃つごとに銃身内を洗う必要があった。(熟練兵はこういう場合、銃口内に小便を流してススをとった。戦場では水が貴重であったので、小便も有益に利用されていたのである) また銃身は交換可能であった。28年モデル以降、先端のバレルバンドにはスプリングが付いていて、シャルルヴィル独特の盾状バレルバンドのある銃口部は、銃身と銃床をしっかり固定するための部品である。1777年モデルは、このバレルバンドの内側が波形をしているのが特徴で、他の古いモデルは直角である。アメリカでコピー生産されたものも古いタイプを模範とされたためにほとんどは直角で、すっきりした外観をしている。バレルバンドは三つで、63年のモデルから二番目のバレルバンドにはストラップを付けるためのバックルが備えられるようになった。トリガーガードの前にもう一つのバックルがある。

②のドラグーン・マスケットは竜騎兵やヴォルティジュール兵、海兵や砲兵などが装備したショートカット版で、銃身が短い方が装填しやすいために、散兵任務にはこちらのほうが向いていると考えられていた。 ショートカットは実際には幾つものバージョンがあり、丈もまちまちだったようだ。(銃身を短くすると、火花が銃口から吹き出すように見えるようになる。)
③④は騎兵用の小銃およびピストルである。ここでいうフランス軍のカービン 銃は施線式ではない。










 
[ イギリス編 ]

図08

図09図10


(備考:番号は上から;①②③は同縮尺) 銃身 全長 口径 重量 弾丸 銃剣
ⓐブラウン・ベス
(Long Land Pattern: 1730)
116.8cm
[ 46in. ]
158.8cm
[ 62.5in. ]
19.3mm
[ 0.76in. ]
4.082kg
[ 9.0lbs ]
-  
① ブラウン・ベス
(Short Land Pattern: 1768)
106.7cm
[ 42in. ]
147.3cm
[ 58in. ]
19.8mm
[ 0.77in. ]
4.626kg
[ 10.2lbs ]
32.4g
(14番)
43.2cm
[ 17in. ]
② ブラウン・ベス ( India Pattern) 99.1cm
[ 39in. ]
139.7cm
[ 55in. ]
19.1mm
[ 0.75in. ]
4.422kg
[ 9.75lbs ]
- -
③ ブラウン・ベス (New Land Pattern) 106.7cm
[ 42in. ]
149.8cm
[ 59in. ]
19.1mm
[ 0.75in. ]
4.706kg
[ 10 3/8lbs ]
- -
④ 1796年型・カービン銃 (Elliott Pattern) 66.04cm 105.41cm 19mm 3.632kg 41.3g
(11番)
38.1cm
⑤ 1796年型・軽騎兵ピストル 22.86cm 38.1cm 15.7mm 1.134kg ? n/a


 イギリスのスタンダード小銃・”ブラウン ベス”
この時代のイギリス軍の制式小銃のスタンダードモデルは、”ブラウン・ベス (Brown Bess)”という名でよばれ、歩兵銃としては当時ヨーロッパで最も有名なマスケット銃であった。
ブラウン・ベスというニックネームは早くも18世紀初頭には書類等に見られ 、いつ頃からかすっかり定着していた。 その由来には諸説あり、起源は不明である。しかしいくつか説があり、①ドイツ語の小銃を意味する語” Buchse(「u」は変母音で発音は”ビュシュ”) の音から女性名の”ベス”に転じたとする説、または②制式小銃のことを”王の腕”という風に表現することがあるためベスはエリザベス女王の意味ではないかと推測する説、さらには③外見上の特徴、銃床の磨かれたクルミ材の色か、または(初期のタイプは銃床が黒ペンキで塗られていたので)銃身がすぐにさびるところからきている、ともかくこの色の特徴”ブラウン(茶色)”が合わさってこのニックネームができのではないかという説がある。
ブラウン・ベスは幾つかの変更を経て、1730年代から1830年代までの 長期間、広く世界的に展開する 英軍とともに世界各地の戦場で使用され、イギリスの外交政策によって、プロシア やロシアなどにも輸出されていた。 ブラウン・ベスはこの期間で180万挺以上生産され、プロシアに11万3千 挺、ロシアに6万挺ほど輸出された。
初期のブラウン・ベスは”ロング・ランド・パターン”と呼ばれるもので、1722年にプロトタイプが創られた。46インチの長い銃身でソケット式銃剣と木製(1725年より先端は金属製)の込め矢を装備しているのがこのタイプの特徴だった。この旧タイプの制式採用は1730年からで、複数の新タイプが登場して以後も1790年頃までは流通していた。
1740年から42インチの銃身(と鉄製の込め矢)を持つ”ショート・ランド・ パターン”も生産されはじめて併用されたが、フレンチ=インディアン戦争での森林戦やゲリラ戦の戦訓から 、より軽く扱い易い兵器が必要であることが公式に認識され、1765年以降、制式小銃は42インチの銃身に統一されるように決まっていたが、七年戦争からアメリカ独立戦争と続いたことでイギリスは財政難になり、経済的理由からこの規定が守られず、さらに革命戦争の勃発で小銃が不足すると、東インド会社が保有する植民地軍の武器であった”イーストインディア・パターン”と呼ばれる39インチの銃身を持つタイプが、エジプトや地中海のイギリス部隊へ逆輸入され、旧式型も引き続き使用されることになった。 この短銃身の”インディア・パターン”は軽歩兵の武器としても使用された。
1802年、新たに42インチの銃身を”ニュー・ランド・パターン”が制式小銃に加わり、近衛歩兵隊と第四連隊のみに支給された。さらに39インチの銃身の軽歩兵版(グリップ付き)も製作され、ハイランダーズを含む一部の部隊に支給された。銃身が短い小銃は膝立ち姿勢での装填が可能になるので、便利であるとされ、軽くもあり、兵士にはそっちのほうが好評だった。

ブラウン・ベスの銃床は、クルミの心材で造られていた。クルミ材はこの銃のあだ名の由来の一つとも言われるわけだが、木質は重硬で衝撃に強く強度と粘りがあって、そのためこの小銃は頑丈であった。また14番口径(=このサイズの弾は14発で1ポンドになるという意味)という重い弾薬を使用していたために、発射された弾はより強い衝撃力をもっていて、 命中すれば敵により重い傷を負わせることができた。14番口径の弾丸の直径は約0.71インチほどで、すべてのタイプのブラウン・ベスで使用できるほか、口径がより大きいので鹵獲したシャルルヴィル用の弾丸(22番とかなり小さい)をそのまま使用することができた。ただこのために遊隙が広めにとってあるので、弾道の偏差はあまり良好ではなかった。弾丸の重さに比例して重力も増加するので、弾道の放物線はより急カーブを描き、弾道が安定せずに頭上を越えるか、目標より手前に落ちることが多かったようだ。( 表Ⅳ.参照 ) このため有効射程はシャルルヴィルよりも短めであったが、1841年の実験では45℃の仰角で1030ヤード(942メートル)の最長飛距離を記録したことがある。(ただこれは単に銃弾が飛んだ距離というだけで有効射程ではない) また若干、銃身が短いため、より扱い易いと思われていた。銃口の上にある照星の出っ張りは、ソケット式銃剣の留め金にもなっている。(この時代のほとんどの小銃には照門はついていない)
総合的に考慮して、汎用性には優れているが、銃自体の精度ではやや劣るといってもいいかもしれないが、この程度の差はこの時代の戦術・運用面でのマイナスで覆い隠せた。










 
[ プロシア編 ]

図11
図12
図13


(イラストは同縮尺ではありません)
銃身 全長 口径 重量 弾丸 銃剣
ⓐ Altpreußischen-Gewehr M1782 105.3 cm 146.5 cm 18.6 mm ? ? 37 cm
① フュージリア-マスケット (1796年改修) 104cm 145cm 18mm ? ? ?
ⓑ Nothardt-Gewehr M1801 104cm 145cm 15.69mm 5kg ? ?
② ニュープロシア-マスケット
(Neupreußischen-Gewehr M1809 )
104.5cm
[41 1/8in.]
143.5cm
[56 1/2in.]
19.05mm
[0.75in.]
4kg
[8.82lbs]
? 46.2cm
[18 1/2in.]
③ 1787年型・ユサール用滑腔式カービン銃






④ 1789年型・騎兵ピス トル
27.94cm
?
17mm
?
?
n/a
⑤ 1813年型・騎兵ピストル 41.5cm 24.1cm 16.2mm 1.28kg    


 プロシアのスタンダード小銃
この時代のプロシア軍の制式小銃は、クラウゼヴィッツの言葉を借りると「ヨーロッパで最悪」のマスケット銃であるそうだが、これは1782年の旧型(Altpreußischen-Gewehr )があまりにも長く使用され、かつ軍内部で雑多な口径、雑多な銃身の小銃が混在していたからである。(特にしばしば微妙に異なる制式小銃を持つ他のドイツ領邦の軍隊と共同で行動する)プロシア軍の参謀にとって、異なる口径に合わせて様々な銃弾を用意して必要な隊に分配するということが頭痛の種であったようで、同様の悩みはロシア軍でもみられ、イギリスから輸入された汎用性に優れるブラウン・ベスの使用の方が好まれた原因である。しかし当時プロシアは現代のドイツと違って物作りが盛んというわけではなかったとはいえ、後期に採用されたものはそれほど劣っていたわけではなく、幾つか先取的なアイデアも取り入れられていた。
プロシアの軽歩兵が持つフュージリア・マスケット(Fusilier-Gewehr)は、初期の1787年型は95cmの銃身で1796年に改修されて銃身が104cmに延長された。(なお、プロシアの猟兵狙撃兵はライフル銃を装備していた。)
プロシアの戦列歩兵の持つマスケットは、1806年戦役までは主に1782 年型の古いバージョンがほとんどで、取って代わるはずだった1801年型および1805年型(Nothardt Pattern) の普及は、経済的理由でかなり遅れていた。さらにこのタイプは口径がシャルルヴィルよりも小さかったために鹵獲弾丸やイギリスの輸入品が使用できないという大欠点があったため、普及する前に一部の部隊を残して使用停止となった。
1809年型の”ニュー・プロシア”マスケット(Neupreußischen-Gewehr)と呼ばれる型は、フリントロック銃としてはこの時代で最も優れた設計であったといわれ、銃身は簡単に取り外し可能で、 洗浄も容易だった。 また銃剣は簡単なソケット式の一般的な他国タイプと違って、スプリング式固定器でしっかり固定でき、口径もヨーロッパ各国全ての弾薬を利用できるように十分な大きさをもって設計さていた。しかしながら生産は需要に追いつかず、プロシアでは外国の小銃が広く使用された。シャルルヴィルやブラウン・ベスも多数併用されて自前のものよりもかえって多かったほどである。

③のカービン銃は施線式のタイプもある。プロシア軍はライフル銃の導入に積極的だった。
④の騎兵ピストルには1809年型の8インチ銃身バージョン、1813年型の9.5インチ銃身バージョンなど様々なタイプがある。










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