砲弾の一般解説
ナポレオン戦争の頃、砲弾には基本的に5つのタイプがあった。すなわち球形弾(砲丸)、榴弾、焼夷弾、散弾、榴散弾(シュラプネル)の5種類である。さらに散弾には、内部に複数の大型の子砲弾が込められているものと、多数のより小型の子砲弾が込められているもの、ケースに内容物が収められた缶状の形態をしているものと、子砲弾がむき出しになっているブドウ状の形態のものとがあった。当時、もっとも多く使われたのは球形弾で、使用された砲弾全体の70%~80%以上に及んだ。砲弾の大きさや重さは最小1ポンドから最大68ポンドまで様々で、使用される大砲によって変わってくる。ナポレオン戦争の頃には規格の統一化が進み、雑多な砲弾に砲兵が悩まされるということは減ってきたが、度量衡の不統一から、同じ重量の砲弾であっても実際には製造場所によってかなりの違いがあった。
大砲と砲弾の威力は絶在であった。その争奪は会戦の正否を決める。
[ ① 球形弾の解説 ]
球形弾
( ROUND SHOT )
当時の主要な大砲の弾で、球形の砲弾。砲丸とも言う。主に鋳鉄製。騎馬砲兵隊では弾薬車の重量を軽くするために中が空洞となった球形弾も使用されていた。大砲初期には石の砲弾も使用されたが、これは命中の際に砕けてあまり効果がないので、ナポレオン戦争期には臼砲用か、鉄の砲弾が無くなったときぐらいしか使用されなかった。
また臼砲用などの巨大砲弾は、重量過多で持ち上げるのが困難なため、鉄製の取っ手が付いていた。砲兵はこれに担ぎ棒をさして二人がかりで持ち上げて装填した。
球形弾は実体弾であり、標的の人馬・壁などに直接命中してはじめて、被害を与えることができた。大きな砲弾ほど、基本的に速度が速く、威力も強かった。
当時の製造技術では完全な球体を鋳造することができなかったため、この砲弾はまっすぐに飛ばないことがしばしばあった。重心のずれや、球面が崩れていると、砲弾は予想外の変化球となることがあるが、これは逆に兵士たちの恐怖心を煽った。
カノン砲の場合には、高い弾道だと地面にめり込むだけなので、専ら低い弾道で使用され、3~5度以上の仰角がつけられることは滅多に無く、よってその弾道は非常に平坦な放物線となり、中長距離の砲撃に適していた。しかし近距離でも、砲弾は12人の人体を貫通するほどの強烈な運動エネルギーを持っていたので、経験豊富な砲兵士官ほど、密集した敵の隊列に対しては至近距離でも散弾より球形弾を好んだ。
カノン砲では砲弾の初速が威力に比例するのだが、その速度は現代兵器とは比べ物にならないくらい遅く、曳光弾でもないのに十分に視認することができた。1000ヤード(914メートル)先での砲弾の速度は、18ポンド砲で時速92キロ、9ポンド砲で時速76キロ、6ポンド砲で時速49キロしかなかったが、こういった遅い速度でも人馬に致命的な打撃を与えるには十分だったのである。
[ ② 榴弾の解説 ]
榴弾
( COMMON SHELL )
当時の榴弾は木製(あるいは紙製)の信管の付いた炸裂弾で、鉄製の外殻のなかに火薬が詰められた砲弾である。一般にこのタイプの榴弾はHE弾などと区別して、”コモン・シェル”と呼ばれる。 (HE弾とはHigh Explosive Ammunition の略語で、高性能炸薬弾の意味。現代の一般的な榴弾。)
外殻には信管用と弾底板用の穴が開いており、外殻の厚みは砲弾の直径の約6分の1程度で、起爆を容易にするため外殻は上部で薄く、下部で厚いという構造になっていた。炸薬の爆発で厚い外殻が飛散して周囲に損害を与える兵器で、中長距離用の対人兵器として用いられ、爆破そのもの力とともに、同時に発せられる熱によって引火も引き起こせたために家屋や城塞、陣地などの拠点攻撃に使用しても有効で、実際に多くの実績を上げている。
当時の一般的な信管はリード状の木管で、内部に導火線が入っていて、燃焼時間を表す半秒ごとの目盛が刻まれ、その刻みのところで割れるようになっていた。また先端部は防湿のため羊紙でキャップされて保管されていた。
導火線が炸薬に点火する前に燃え尽きてしまう不発もたびたびあったのだが、爆発時間を調節することができる初歩的な時限信管で、砲兵は必要な長さに信管を切り取ってから、木槌で取り付け口に打ち付けて固定し使用した。
しかしこういった方法のために、爆発時間を正確に調整するのはかなりの経験を要した。榴弾は中空で爆発するときが最も効果的であったが、タイミングが合わずに地上に落ちて爆発することが多く、落ちてもすぐに爆発しないようだと、敵が火を消して爆発を未然に防がれてしまうこともあり、雨天で地面がぬかるんでいるようだと、落下で泥にめり込み、爆発の威力が吸収されて無力されることもしばしばだった。
また砲兵はしばしば準備の手間を嫌って事前に信管を適当な長さで切って弾に装着し、その時間に合わせて逆に目標や高度の方を調節することがあった。
榴弾の射程は、導火線の長さによって制限を受け、およそ700ヤードから1200ヤードの間ほどでしか使用できなかった。つまりこれ以上近いと、それほど短い導火線を速く燃え尽きさせるのは安全上の観点から無理で、逆に導火線に限界があるのであまり長い時間も無理だったのである。
砲撃の際には事前に導火線に火をつける必要はなく、榴弾砲や臼砲では発射薬の高い爆圧で自動的に信管に火がついた。しかし砲身の長いカノン砲ではこの点火方式が機能しにくく、また砲弾自体がもろく壊れやすい性質のものだったため、装薬量を多くして初速を速めるカノン砲で、榴弾が使用されることはまずなかった。装薬を減らせばカノン砲でも小型の榴弾の発射は可能ではあったが、この時代にそういった手法は用いられていなかった。
当時の榴弾にはあまり多くの炸薬を詰めることはできず、その爆発力も限られたものであったが、それでも心理的・物理的に大きな脅威であった。密集した隊列の中で爆発するとその損害は凄まじく、恐ろしい轟音とともに撒き散らされる破片はあたり一面に死の雨を降らせ、不発弾ですら兵士たちを恐怖に陥れた。特に騎兵は被弾面積が歩兵の二倍あるだけでなく、爆音で馬がショックを受けるため、榴弾は対騎兵兵器としてが一番有効であった。前進中の騎兵隊の前方に榴弾を撃ち込むと、一時的にしろ、騎兵隊の進撃を停止あるいは遅延させることができた。
ちなみに一般知識としてだが、爆発する砲弾のことをシェル(SHELL)、しないものをショット(SHOT)と英語では呼び分けている。
[ ③ 焼夷弾の解説 ]
焼夷弾
( CARCASS )
右図のものは球形の焼夷弾だが、当時最も一般的だったのは楕円形のもので、球形のものはナポレオン戦争前後に登場した新型。
この砲弾は外殻が割れない程度の強度が必要とされたために形状の異なるタイプがいくつかある。
通称 ”カーカス” と呼ばれるこの砲弾は、町などを焼き払うときに用いられる兵器で、構造は榴弾と同じ中空弾だが、外殻の穴(2~4個)が榴弾よりも多いのが特徴。
榴弾と同じような信管をこの穴につけて使用され、点火後は炎を3分から12分間程度は出し続けたので、照明弾の代用としても用いられた。
内容物は製造者によってまちまちで、ところによっては秘伝とされていたが、典型的なものとしては、硝石:硫黄:アンチモン:ロジン:ピッチが50:25:5:8:5の比率で混合された粉末で、この化学性の火は水で消すことが難しく、燃え尽きるのを待つよりなかった。
焼夷弾は榴弾同様、臼砲や榴弾砲でのみ使用された。町の焼き払いなどには、球形弾を単に高温に熱しただけの焼弾 (HOT SHOT)なども使用され、焼夷弾および照明弾にはロケット花火式のものもあった。これらは基本的に殺傷を目的にした兵器ではなく、砲兵中隊が数発装備する程度で、野戦での使用はかなり稀だった。
[ ④ 散弾の解説 ]
散弾
( CASE SHOT or
CANISTER )
散弾は、カノン砲と榴弾砲の両方で使用できる近距離用の対人兵器で、いくつかのタイプがあり、はんだで密封されたブリキ缶に弾を収めたものは”ケース・ショット”あるいは”キャニスター”と呼ばれるが、これは共に文字通り”缶入り”を意味する言葉で、散弾といえば後述のブドウ弾ではなく、一般にこういう形式のものをさした。
散弾には大型の子砲弾(=弾子)を30個~46個前後を収容する重散弾と、小型の子砲弾を含む60個~120個前後を収容する軽散弾とがあった。子砲弾は一般に1オンスから4オンス程度の鉄球で、オーストリア軍など一部では軽散弾用にマスケット銃弾と同じ鉛球も使用された。同じ重さの子砲弾だけのときもあったが、重さの違うものが混ぜられるときもあり、大砲が発射できる砲弾の重さには限りがあったため、例えば6ポンド砲ならば散弾の重量も、6ポンド以下あるいはそれに近い値となるように子砲弾の数も調整されていた。
( 散弾は球形弾と同じ直径だが丈が長いので、実際に重量がオーバーしているものもあったようだ。こういった場合も砲撃は可能だが、射程はより短くなった )
弾体を覆う”ケース”の目的は、多数の弾体が一度に発射される際の砲身内部の傷みの軽減と、弾が分散しすぎないようにするためのもので、装薬の爆発に耐えて砲身の外にでるまで壊れないだけの強度が必要だったのだが、初期のケースはこの強度が不足していた。このケースの強度次第で、散弾がどの段階で拡散を始めるのかが決まり、それが遅いほど弾の密度が濃く、それだけ高い殺傷力を発揮することになるのだが、ナポレオン戦争の頃にはかなり丈夫になり、使用時には衝撃を弱めるために木製の弾底板が付けられていた。また子砲弾の隙間には、おがくずを詰めるのが一般的だった。
散弾は、装薬の爆発による加圧と砲身の外に出たときの減圧で自然に分解し、飛び出した弾は円錐形に拡散を始める。これは100ヤード(91.4㍍)毎に32フィート(9.75㍍)の拡散ペースで幅が広がると言われ、このため一般的に幅の狭い標的への攻撃は不向きで、横隊や騎兵隊など幅の広い隊形で高さもある敵への攻撃に向いていた。
円錐形に広がるということは上下左右に広がるわけであるから、発射の位置の高さを考えれば、多数の弾は目標に達せずに地面の落ちるということを意味していた。特に重散弾はその3/4が目標に達せずに地面に突き刺さっていたという。
散弾の射程は球形弾より短く、物理的に個々の弾の運動エネルギーは収容された弾の数が多いほど弱くなったため、重散弾の方が軽散弾よりも射程はやや長かったが、弾の密度が濃い軽散弾の方が対人兵器としては優れていた。
英軍では300ヤード(274㍍)が散弾の最大射程であるとし、350ヤード以上ではその使用を禁止していたが、散弾でも跳弾射撃を奨励していたフランス軍では最大射程を580㍍とし、400㍍前後の中距離での使用もしばしば見られた。
球形弾の場合は1発の砲弾で複数の人間が殺傷されることがよくあったが、散弾の場合には個々の弾の貫通力が弱く、こういったことが起こるのは稀だった。よって歩兵に散弾が使用された場合、最前列のみが犠牲となり、後列に被害が及ぶことはほとんどなかった。このため経験豊富な砲兵士官は、縦隊突撃を防ぐときはぎりぎりまで球形弾を使って奥の隊列まで吹き飛ばし、最後の瞬間に散弾を使った。他方、射程がさらに縮まるので直射距離(200㍍前後)以外では無理だが、一度に2発の散弾を装填して砲撃することも可能であった。着弾範囲がむしろ狭まるので効果が二倍になるわけではないが、弾の密度が濃くなり、着弾範囲内での殺傷率が少しあがった。
また砲兵士官は緊急事態に、散弾と球形弾を一度に発射させることもあった。このやり方では砲身の磨耗による限界で10分も砲撃を続けられなかったが、大砲を奪われるのが確実なときなど、一か八かの策として行われた。アウステルリッツ会戦でティエボール将軍などがこの実例である。
[ ⑤ ブドウ弾の解説 ]
Quilted Grape
Tier Grape
ブドウ弾
( GRAPE SHOT )
ブドウ弾は散弾の一種で、初期の様式の形状が”ブドウ”を連想させたことから、この名前が付いた。大型の子砲弾入りの散弾。形式としては、子砲弾の間に木製の板を挟んだものを布で包み、針金で縛ったものか、鉄製の穴の3つ開いた円盤二枚を子砲弾の間に入れて、さらに二枚の円盤で挟んでネジで止めたもの、鉄製の支柱で止めてあるものなどがあった。布で包まれているのが初期型、後者二つが後期型。子砲弾は通常36個程度で、散弾のものとしては大型の子砲弾だった。
これは海上で近距離の船上に対して使用されたり、中距離で帆に複数の穴を開けて航行不能にするための海戦用の砲弾であって、陸上では七年戦争後は使用されることは全く無くなった。理由は陸上では
実戦で効果が期待できない
ことが、当時、実験によって証明されたからである。
この形式のケースは装薬の爆発ですぐに分解してしまうので、鉄製の子砲弾は砲身内で高速に達し、跳ね回って真鍮製の砲身を酷く傷めるだけでなく、鉄球同士が激突して砕けたりした。通常の装薬量で砲撃を続ければ、高温になった鉄球同士の表面が溶解してくっ付き、これらはともに砲身から出た時点で威力を失い、大半の子砲弾は目標の遥か手前で落ち、それ以外も非常に減速していて貫通力を著しく失っていた。
砲身から出てすぐにかなり広く飛散し、弾の密度も薄いため、命中精度自体も極めて悪かった。このため元来は長距離用の散弾として設計されたものだが、至近距離でしか利用できず、役に立たなかった。
なお、1800年代初期にはすでにブドウ弾は陸の戦場から姿を消していたため、英軍の砲兵隊は”キャニスター”と”グレープ・ショット”という用語を(誤って)同じ意味で用いる傾向にあった。英軍では本物の”ブドウ弾”は海軍の戦艦上でのみ使用され、厳密にはこの用語の陸軍での使用は正しくなかったのであるが、散弾の俗称として使用された。
またフランス軍では、このブドウ弾という用語を陸の部隊に勤務している砲兵が使用した場合、砲身に詰めることができる利用可能なすべての物、例えば釘や石などといったものか、大量のマスケット銃の銃弾を、いっぺんに詰めて撃つという行為を意味していた。
これは砲兵隊が脅威にさらされたときの緊急策か、普通の散弾が尽きたときなどの最後の手段であり、
本物のブドウ弾を撃つという意味ではない
ので注意。
ヴァンデミエールのクーデタで将軍ボナパルトが群集に砲撃を命じた際のブドウ弾も、通常のものかあるいは臨時の散弾のこと。ヴァンデミエールが”葡萄月”を意味するので、(多分本人が)脚色したものが後に誤って解釈されて伝わったものだろう。
ちなみに、このような緊急用の散弾は、剥き身のため砲口から出た直後から想像以上に広く拡散を始めるので、命中精度は通常の散弾よりもかなり低くなった。音は立派だが、ごく近距離でしか威力はなく、30~40㍍を超えるとほとんど効果はなかった。これは通常の散弾の八分の一以下の有効射程である。
[ ⑥ 榴散弾( シュラプネル)の解説 ]
榴散弾
( SHRAPNEL)
これは1784年にイギリス人ヘンリー・シュラプネルの手で発明された新型の対人兵器で、榴弾と散弾の両方の機能を併せ持っていた。一般にこの種の砲弾は榴散弾あるいは球形散弾と呼ばれるか、特にこの時代の初期榴散弾は発明者の名をとって”シュラプネル”とも呼ばれる。
鉄製の外殻が榴弾よりも薄く、なかに炸薬とともに多数の銃弾(鉛球)が詰められ、これが(榴弾のものと同じ)信管によって起爆すると、外殻の破片とともに銃弾が敵に降り注ぐという仕組みになっていた。従って炸薬は榴弾のものよりも少なく、外殻を破裂させる分だけで十分で、以後は(慣性の法則で)砲弾の速度と同じ速度で降り注いだ。砲弾の中に含まれる銃弾の数は、6ポンド砲で27発~57発、9ポンド砲で41発~127発、5.5インチ榴弾砲で153発。
榴散弾は中型以上のカノン砲と榴弾砲の両方でき使用でき、ナポレオン戦争では榴弾砲での使用が主だったが、それ以後は砲弾の改良と後装式、速射可能の閉鎖弁の普及によって逆にカノン砲での使用がメインとなった。
射程がほぼ球形弾と変わらないという優れた特性を持った画期的な砲弾で、例え最大射程であっても時限信管の調整が正しければ、効果に変化がないという点では球形弾よりも優れていたが、往々にして時限信管は不正確だった。
近距離でしか使用できなかった散弾の効果を、中長距離でも発揮できるというこの榴散弾は、ある意味で英軍の秘密兵器といえたが、この新兵器には発明当初の設計に不備があった。砲弾のなかの銃弾と炸薬が、振動することによって摩擦熱を生じ、爆発する危険があったのだ。これは単に目標に達する前に爆発してしまうというだけでなく、装填中や輸送中でも爆発を起こす可能性があり、実際に砲兵に死傷者がでるなどしたため、改良を余儀なくされた。このため戦場に初登場するのは英軍に正式採用された1804年まで待たねばならず、さらに本格投入は4年後となる。
散弾が敵兵の小銃射程内で危険を冒して使用されたのに対して、榴散弾はその射程のおかげで、砲撃者は安全に敵兵を攻撃でき、球形弾のような正確な照準も必要なかったために、より迅速に砲撃することができた。榴散弾は中空で爆発した場合にもっとも効果を発揮し、破片と銃弾は爆心から弾道方向で円錐形に同速で拡散したので、極めて効率的に殺傷できた。
この砲弾は後の歩兵砲の主力砲弾となるものだったが、25年間は英軍の独占状態で、1808年以後実戦に投入されて半島戦争と百日戦役で活躍。抜群の性能を見せ、すぐに(英軍)榴弾砲の主力兵器となってその砲弾の50%を占めた。
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