砲術の一般解説
現在の物理定理が発見立証される以前、銃砲の弾、弓矢などの投射物は、最初に与えられた推進力で直進し、その運動エネルギーが消費された後、自然落下するものだと、昔の人は考えていた。しかし周知のごとく、この考えは完全な誤りで、地球上においては、重力の影響ですべての投射物の軌跡は放物線を描く。
このことは17世紀初頭にガリレオ・ガリレイが大砲の砲弾の飛行を観察してみて実証したものであるが、以来、軍事科学者や大砲技術者は砲弾の軌跡、つまり”弾道”に注目した。そして弾が砲の腔内で発射薬の燃焼ガスにより加速され、押し出された弾が砲口を通過し、空中を飛行、目標に着弾するまでを、4つに区分し、弾道学なるもの発展させていったわけである。
ナポレオン戦争当時の弾道学は、まだ初歩的段階ではあったが、物理学をベースにしているので基本は現代のものと変わりがないと考えてよい。問題は実践で、電子計算機も計測機器もない時代で、知識が有効に活かされていたとは言いがたい実情だった。この頃の大砲は現在と比べれば射程が短く、ほぼすべて裸眼による直接照準射撃で、弾道は遊隙や偏差による弊害を受けていたのだが、それを計算して照準に反映させる手段はまだなかった。そこで代用に弾底板を使用し、すこしでも隙間をうめて弾道を安定させようという工夫がなされていた。
重く機動性の悪い大砲を照準する作業は一苦労で、グリボーヴァルの改革以後、重砲が影を潜め、より機動的な軽量砲が主流になっていたとはいえ、人馬のみでの作業の苦労は想像に難くない。
大砲の照準はかなり大まかなもので、ほとんどの大砲には照星がなく、砲手が実際に砲身のそばに目をやって大砲の左右の向きを確認していた。距離は、高架ネジによって砲身を上下して仰角を与えることで理論的にはかなり正確に調整することもできたが、照準作業においては目標との距離を測ることが常に問題で、科学というよりも主に経験に頼っていたというのが実態だった。
大砲と弾薬には、その使用に関して状況に応じた独自の応用法があり、砲兵士官は、大砲の種類や距離によって、適切な砲弾、砲撃方法を選んで砲撃を行っていた。ナポレオン戦争当時は代表的なものとして5つの方法があった。すなわち直射射撃、平射射撃、跳弾射撃、曲射射撃、無照準射撃である。また一般に、中長距離では球形弾を、近距離では散弾を使用することが多かった。

ここでは砲術に関係する事柄、砲撃方法、大砲の配置、砲兵隊で使用されていた備品類の名称、および前装式野戦砲の操作手順の解説を行う。





[ ① 直射射撃(POINT BLANK)]
現代の言葉遣いで直射(ポイント・ブランク)と言えば、単に至近距離での砲撃、零距離射撃を意味している場合がほとんどだが、ナポレオン戦争当時は、弾道と距離に関する、もっと厳密な技術的用語であった。

照準線、および砲身を完全な水平状態と考えるか、単に目標と砲口の中心とを結ぶ直線と考えるかで、直射射撃には定義上の若干の差異があり、後者の場合、砲身の角度によって直射距離は長短変動する。 ↑上図は分かりやすく高低差を強調してあるので注意。 見た目はほぼ水平。
弾道が描く放物線は、砲弾の飛行距離が長くなるほど砲弾の落下角度が大きくなるという二次曲線と同じ特徴を持っているが、これは逆に言えば、最初の一定距離に限り、落下の角度が緩く、弾道曲線が(見かけ上)直線に平行するような範囲があるということで、つまりこれが”直射距離(ポイントブランク・レンジ)”と呼ばれるものである。具体的にはこの距離は、大砲と目標物を結ぶ直線、つまり”照準線”と、大砲の実際の弾道が交差する二点間のことで、この二点間の交差しない距離がまさにポイント・ブランク(点の空白)の意味するところであった。
直線と放物線の最初の交差点(ファースト・ポイント・ブランク・プリミティブ、以下FPBP)は、基本的には大砲の砲口を出た直後であった。
これは大砲は、砲撃の反動によって砲弾が飛び出す前に砲身自体が微動したり、砲弾と口径との差(遊隙)によって砲口の中心を外れて飛び出したり、砲口付近の爆風の影響などを受けるので、仰角0度(水平)の場合でも、自然に跳起角がつき、実際の砲身の角度は完全な水平とはならず、砲弾は斜め上方に発射されるという特徴があるためである。よって実際の弾道はまずゆるやかに上昇し、それから重力によって下降を始めて、再び照準線と交差する。この二回目の交差点(セカンド・ポイント・ブランク・プリミティブ、以下SPBP)までの距離内では、弾道は曲線であるとしてもその変化の幅が少ないために、砲手は距離を考慮する必要なく、大砲を水平にして目標の方向に向けるだけで、砲弾はほぼ狙いと同じ場所に命中させることができたのである。
この直射距離は初速が速いほど長くなるため、基本的には装薬量の多い大口径砲ほど長くなるが、ナポレオン戦争当時の大砲では口径による差はあまり表れず、野戦砲ではどれも230㍍~350㍍(250~380ヤード)程度であったが、このFPBP-SPBP間で行われる砲撃すべてを一般的に直射射撃と呼んだ。この直射射撃は、近距離射撃であるから当然といえば当然だが、最も命中精度の高いものである。




 
[ ② 平射射撃  (DIRECT FIRE or FEU A PLEIN FOUET) ]
平射射撃とは、簡単に言えば、その大砲の有効射程内で、直射距離よりも遠い目標を狙った照準射撃のことである。これは(照準線と二度目に交差する)SPBPの地点よりも遠いわけであるから、目標の射程に応じて砲身(あるいは大砲全体)に角度をつけてやる必要があるが、ここが直射と平射の相違点である。平射ではまず砲兵士官が目標との距離を測り、その地点まで砲弾を送り込むのに必要なだけの仰角を計算しなければならなかった。
距離の算定は、当時すでに三角測量や視距測量、測距儀も発明されていたが、ナポレオン戦争当時の野戦ではこれらが用いられることは稀で、単なる目測か、最初に目測で発砲して弾着を確認後、そこから修正していくという方法(夾叉法)、砲兵士官が敵の大砲の砲撃時の閃光から轟音が聞こえるまでの秒数を数え、それをおよその常温での音速173トワーズ(369ヤード)とかけて距離を測るという方法がとられていた。
これはもともと有効射程が短く、射程を長くすればするほど大砲の構造上、狙いがアバウトになるために、照準の付けやすい中距離での砲撃が好まれたためと、城塞攻撃のように長期間包囲攻撃するならいざ知らず、野戦の場合には緻密な砲撃よりも、むしろ素早い砲撃、素早い再照準のほうに重点が置かれたためで、また標的となるものが通常は歩兵部隊や騎兵部隊といった大きな集団であることが多かったために、正確であることはあまり必要とされなかったという背景もある。ただし例外は敵の砲兵隊に対して砲撃するときで、この場合には有効な砲撃にするためには高い正確性を要求された。


目測といっても、ただ闇雲に勘に頼っていたわけでなく、一応、経験に基づいていた。(普通の人の)裸眼で敵部隊の集団が認識できる限界の距離は、およそ1700ヤード(1554.5㍍)で、これ以上遠いと何かが光っている程度にしか判別できない。これが1300ヤード(1188.7㍍)まで近づくと騎兵か歩兵かの区別がつくようになり、移動している各部隊が区別できるようになる。さらに1000ヤード(914.4㍍)まで近づくと、個々の部隊の細かい動きが識別できるようになり、700ヤード(640㍍)になると人の頭や軍服の模様・色などが見えるようになり、500ヤード(457.2㍍)までくると人の顔が明るい点のように見え、武器や挙動が判別できるようになる。250ヤード(228.6㍍)までくると、細部までかなり完全に判別可能となる。基本的に1200ヤードが最大射程の限界、800ヤード以下が有効射程、300ヤード以下が直射距離であったわけであるから、砲兵たちはこういった視覚上の変化を判断材料にして、距離を目測していたわけである。 ちなみに左図はあくまでもだいたいの目安として表示したまでで、目盛の違いをみればわかるように角度を誇張してあり、正確な弾道計算に基づいた図ではないので見かけで判断しないように。

ナポレオン戦争においても、直射と平射がカノン砲の主要な砲撃方法であったが、当時の平射射撃は、照準の多くを経験に頼っていたために、結果的にその命中率は低くなった。しかし元来はピンポイント砲撃も可能な方法で、後年、光学照準器の普及や後装施線式の大砲が登場して性能が向上してくると、本来の精度を発揮して、現在でも主要な砲撃方法の一つとなっている。
またこの方法では最大射程付近での使用も可能で、野戦では会戦の前段階において、高い命中精度を要求されない予備砲火などにも利用されていた。
平射の弾道はかなり曲がった放物線を描き、長距離ほどその終末弾道は急角度で落下、ほとんど真上から落ちてくるような格好となるが、砲弾が急角度で落下すればするほど、バウンドの可能性は低くなり、一発の砲弾で損害をうける死傷者の数は減少するという欠点があった。球形弾の場合、基本的に平射射撃では命中しても一人以上の死傷者をあまり期待できず、長距離ほど命中率とともにその有効性も低下したので、中距離での砲撃に向いていたといえる。
また多くのカノン砲では仰角を3度以上にすると有効射程外になり、砲弾は速度を失い、威力が落ちる。そのためカノン砲の仰角は(曲射をするのでなければ)最大でも5度以下、通常は1~2度程度以下とするのが普通で、目分量の4分の1度ほどの単位で微調整した。射程は、各々の大砲の性能、装薬の量によって変わってくるため、各国各軍隊ではそれぞれの口径で仰角と装薬量による射程の変化を記したチャートのようなものがあったが、実際的には経験と実測によって判断していたようだ。
平射射撃では、砲弾は一般に人間の背丈よりも高い弾道で飛行するため、少し高台になったところに大砲を据えれば、味方の部隊の頭越しに砲撃することができた。しかし多くの場合、味方の兵士は頭上を砲弾が飛んでいくということを好まなかったので、物理的には何の支障もなかったのだが、心理的要因から、状況が許す限り、意図的に回避されるのが普通だった。
砲撃は敵の隊列に対して斜めに撃ち込んだほうが、被害を与える人数が増えて有効であるということが知られていたこともあって、味方の支援という場合には、大砲は攻撃縦隊の両側面に配置されて、味方の進路に重ならないように砲撃する方がより一般的であった。




 
[ ③ 跳弾射撃(RICOCHET)]
跳弾射撃は、もともと1672年にヴェネツィアの技師トマス・メレッティが、城塞内で防護壁に守られた砲台に対する攻撃法として考案したもので、フランスの偉大な要塞建築家にして軍人のヴォーバンが実践して広まり、当初は曲射の一種として行われていた。
このため仰角が8度から15度もつけられ、装薬量を減らして、低速で大きなバウンドになるように意図的に砲撃された砲弾は、土手の上をうまくかすめるように跳ねていき、要塞を取り巻く塁道に入ると、斜堤や胸墻を飛び超えて目標の大砲のある位置に飛び込むという寸法だった。この砲撃は主に大砲の砲車を破壊して使用不能にすることを目的としたものであったため、目標の大砲に直角方向から砲撃した。側面からの砲撃は命中面積が広くなるので比較的容易で、単に使用不能にすれば事足りたために、どんどん放り込めば直撃しなくとも、近くにいる砲兵などを殺傷することで効果が徐々にでてくるため、平射射撃で直接砲台を一点狙い撃ちした場合はほとんどの砲弾が土塁に命中することを考えれば、何倍も効果的であったのである。
この跳弾射撃の野戦への応用が推奨されるようになったのは、実に革命戦争の直前であった。それまでにも普通に平射すると、弾道の角度によっては、目標に命中せずに地面を叩いた砲弾が跳ね上がって目標とは別の部隊に当たることがあることは知られていたが、この頃にようやく、最初に地面に当たってバウンドさせた砲弾のほうが、より効果的であるということが認識されるようになったのである。
これは跳弾となった砲弾が、人間の背丈ほどの低い弾道でバウンドを繰り返して飛行するためで、終末弾道のみ(砲弾が兵士に直撃する)危険区間を飛行する平射の場合と比べると、命中率は3倍から(長距離では平射射撃の命中率は極端に下がるため)30倍もの増加をみせ、有効射程はほぼ2倍にまで伸ばすことが出来たのである。特に長距離での有効性は群を抜いており、平射ではほとんど狙った位置に砲弾が当たることを期待できない1200ヤードという最大射程近辺でも、十分に敵の殺傷を期待できた。




跳弾射撃で砲弾が最初に着地する地点を第一接地点(FIRST GRAZE)、次に着地する地点を第二接地点(SECOND GRAZE)と呼ぶ。基本的には跳弾射撃は仰角0度ほどの比較的近距離の地面を狙って砲撃されるが、砲弾は仰角が多少あってもバウンドするため、遠距離を狙う場合には2度未満の仰角がつけられることもあった。こういう場合、第一接地点後のバウンドは人の高さを超えるので危険区間が減少する。この跳ね上がりの高さは二度目以降のバウンドで徐々に減少していくが、4分の1度の仰角での跳弾射撃では、弾道の一部が人の背丈よりも高く、1度の仰角ではほとんどが人の頭上を飛んだ。このため仰角2度未満ならば跳弾になるとは言っても、通常は1度未満とするのが普通である。また同様の理由で、第一接地点は目標の手前に落とすのがベストのやり方で、こうすることによって広い危険区間に敵兵を収めることができたのである。接地点同士の間隔は次第に短くなるが、計算上はバウンドするたびに2分の1に縮小していくはずで、地面が堅く乾いた状態でも実際にバウンドするかどうかは約80%の確率であったといわれる。

また跳弾射撃では砲弾の速度が低下するが、それがかえって野戦ではプラスに作用した。
砲弾が前方で跳ねて、ショートバウンドしながら近づいてくるのに気づけば、その道すがらにいる者は誰しも避けようとするものであろうが、しかしそれは結局のところ、部隊の隊伍を乱し、恐怖を蔓延させる結果になるのである。よって跳弾は例え当たらなくとも、敵を怯ませ、隊列機動を阻むことができたのである。
跳弾射撃は中長距離で非常に有効であったために、特にフランス軍を中心にして、ナポレオン戦争を通じて戦場で頻繁に用いられた。一般的には球形弾を使うが、フランス軍では、地面が十分に堅く乾いている場合には、散弾においても跳弾射撃を行った。これにより射程が短いという散弾の弱点を若干補えるとともに、(元来命中率が低い)大型の子砲弾を使った場合の命中精度をかなり向上でき、小型の子砲弾においても地面に当てて不規則なバウンドをさせることで、有効弾数の増加が期待できたのである。
このように跳弾射撃が戦場で広く使われるようになると、同時にこれを防ぐ方法の研究も始まった。考えられる方法は、第一には部隊を起伏のある地形の裏に避難させるというやり方で、上り傾斜の向こう側に位置すれば、跳弾は斜面に当たって兵士の頭上を飛び越えていってくれるという寸法である。ワーテルローなどでウェリントンが好んで丘の背後に陣地を築いたのは(味方の陣容を隠すという以外に)フランス軍砲兵の威力を減じさせるためであった。
第二には、現在砲撃を受けている位置から前進することであった。これはプロシア軍のブリュッヒャー元帥が特に提唱していた方法で、跳弾射撃の効果を減少させるために危険区間から移動するという考えで、遠距離から砲撃を受けているときは、前進した方が砲弾の多くが頭上を掠めて飛び越えるようになるため、損害を回避できたのである。また中距離の場合でも、前進すれば、すなわち敵部隊と近接することになり、敵味方接近していけば、最終的には白兵戦になるが、一発の砲弾で多数の死傷者を出す状況下にいるよりはましで、少なくとも跳弾射撃を受けることはなくなるという寸法であった。
これらはともに実践され、特に前者は部隊配置のあり方に変化を与えた。




 
[ ④ 曲射射撃(CURVED FIRE or HIGH TRAJECTORY FIRE)]
曲射射撃は臼砲や榴弾砲で行われていた砲撃法で、45度程度の仰角をもたせて砲撃された。ただし英軍の榴弾砲は30度、ロシア軍の長砲身砲では20度とすることになっていた。これらの大砲は低角度でもカノン砲よりも砲弾の速度が遅いので、弾道のカーブはより急角度となった。
ただ榴弾を使った場合でも、その有効性が一部の識者の間で指摘されていたにも関わらず、障害物越しの砲撃でなければ曲射で対人攻撃することはあまりなく、家屋や城塞に対する破壊に主に使用された。
野戦での対人攻撃としての曲射射撃が一般的になるのは、第一世界大戦においてドイツ軍の榴弾砲が英軍の18ポンド砲を凌駕したのがきっかけであり、ナポレオン戦争時には榴弾の性能が低かったことと、射程が短すぎたこともあって、榴弾砲は曲射砲とはいっても実際には平射射撃で砲撃する事の方が多かったようだ。また臼砲は命中精度が低すぎて、元来、対人攻撃向きではなかった。

ちなみに「曲射」には他に、高射(HIGH-ANGLE FIRE)と瞰射(PLUNGING FIRE)という二つのやり方もあるが、この時代は、大砲が最大射程となる仰角45度を越えた高角度で砲撃することはなく、高所から見下ろして砲撃するような状況は沿岸砲や要塞砲ならまだしも野戦砲ではまずあり得なかった。よってこれらは除外している。




 
[ ⑤ 無照準射撃 (RANDOM FIRE) ]
ナポレオン戦争当時の大砲は、どれも射程も短かったこともあり、基本的には砲手が視界に捉えた目標を直接照準する方法のみが可能であったのだが、都市攻撃などでは、例外的に照準を定めずに砲撃することがあった。敵側の砲撃を受けないように有効射程を超えて最大射程の限界で砲撃したため、そもそも照準は不可能だった。それで結果としてだが、間接照準射撃のような格好になった。
無照準射撃は主に臼砲で行われ、住民の抵抗意志を挫くという目的でおこなわれたこのような都市攻撃のあり方は、無差別爆撃の奔りともいうべきものだが、17世紀当時からすでにその非人道性を非難する声があった。しかしそれにもかかわらず、攻囲戦では一般的に広く行われていた。




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