スカイエースとレッドバロンの世界

 1914年、第一次大戦が勃発した時点では、航空機の歴史はまだはじまったばかりで、ライト兄弟がノースカロライナ州キティホークではじめて空を飛んでから、わずか10年しか経っていませんでした。急上昇していく複葉機のイメージで1914年から18年の大空の戦いを想像するわれわれにとって、初期の軍のパイロットたちが最高でも時速60マイルから80マイル前後しかでない機体で飛んでいたという事実は、おそらく意外なものでしょう。実のところ、1914年に西部戦線にはじめて登場した軍用機は、1909年に初の英仏海峡横断を成し遂げたプレリオ機の改良型だったのです。
 戦争が始まった頃、航空機に関する軍事理論などは全く存在しませんでした。しかしすでに100年も前から気球の戦場での偵察の有効性はよくしられていたために、両陣営ともに航空機にすばらしい情報収集能力があることを認識していて、その将来性に注目していました。係留式の気球は、大戦でも敵軍の機動の観測用に使用されていましたが、敵前線のはるか後方まで進入して敵軍の情報を詳細に観察できる、航空機の優位性はあきらかでした。しかも航空機の場合、砲弾の着弾観測も可能で、当時は航空先進国であったフランス軍はこれを戦争初期に用いて大きな効果をあげていました。戦争初期の両軍のパイロットたちは、武器を持たずに飛行していました。敵の戦列の上を偵察しては敵の位置を報告し、これら貴重な情報がマルヌ会戦の勝利など、ドイツ軍の侵攻を止めるのに果たした役割は大きいといえます。
 マルヌ会戦ののちに戦況が膠着すると、両軍ともに戦線を海に向かって伸ばし始め、スイス国境から英仏海峡までに及ぶ長大で複雑な塹壕網がはりめぐらされることにりました。そうなってしまうと、もう次の手が打てなくなり、次にどうするか考え付くまで、両軍は腰をすえて睨みあうことになり、この壮大が塹壕戦がそれからなんと4年間も、事実上、何の変化もなく続きました。硬直的な軍事組織が戦術の停滞を招いていました。機関銃や手榴弾等、塹壕戦用の新装備が、充実する一方で、単なる盛り土と溝からなる塹壕は砲撃にたいして強い防御性を発揮し、塹壕を巧みに組み合わせた縦深陣地は歩兵によるほとんどどんな攻撃も跳ね返すようになりました。将軍たちは、この難問を解決する手段を見つけあぐね、砲撃と歩兵による突撃をより大規模に実施するしかないという短絡的な結論に飛びつき、執拗にこれを繰り返すことになります。一週間にもおよぶ徹底的な砲撃と、それに続く反復突撃だけが、敵の塹壕線と要塞を打ち破れる、彼らはそう信じていたわけです。
 そのような大規模な攻撃には必然的に相応の準備期間が必要でした。兵員の移送のみならず、大量の重い砲弾を輸送して集積するという骨の折れる作業が必要で、しかもそれは何十万人規模の人員、何百万トン規模の補給物資ですから、到底、隠して行うことなど不可能でした。そのためいやがうえにも偵察用の航空機の需要は高まり、敵が塹壕の向こうで何をやっているか知る唯一の手段として無くてはならないものになりました。こうなると、敵の偵察飛行を阻止できたら優位に立てるのではないか? と両軍が考えはじめるのは当然のなりゆきでした。敵の行動を掌握した上で、味方の行動を秘密にできたら、それは決定的なアドバンテージとなるに違いありません。そのためには敵の偵察機が偵察結果を報告する前に、あるいは何かを見る前に、これを破壊しなければなりません。ここで航空機に敵機を撃破できる武器を搭載するという考えが生まれました。最初のパイロットたちが対空兵器として持っていたのは、歩兵が持つものと同様のピストルやライフル、手榴弾、それからレンガといった投げられるものでした。しかしこれらは無いよりましという程度で、ほとんど効果がなく、しかもちょっとしたことで墜落しかねない初期の航空機に乗って、それらの武器を操作するというのは曲芸以外のなにものでもありませんでした。にもかかわらず、1915年1月に連合軍のパイロットがカービン銃を使ってドイツ軍の偵察機を撃墜し、こうしておぼつかない足取りながらも、航空戦の幕が切って落とされたのです。


 いかにして敵機を撃墜するか、それが最初の問題でした。当時は大別して2種類のタイプの航空機があり、ひとつはパイロットや主翼の背後にプロペラを取り付け、プロペラが機体を押して進んでいく、”プッシャー式”と呼ばれるもので、ライト兄弟のフライヤー1号もこの方式でした。前方にプロペラなどパイロットの視界を妨げるものがないため、これは射撃用の機関銃を装備するのに都合のよい形でした。欠点は後方の視界が悪く、機関銃なども置けないことと、デザイン上の空気力学的な問題によって速度も操縦性能もそれほど向上しないということでした。これに対して、”牽引式”は、プロペラが主翼とパイロットの前、つまり機体の先端についているもので、プッシャー式の機体にくらべてスピードや操縦性において優位にたつ可能性を秘めていました。これの欠点は、プロペラがあるために前方に機関銃を撃てない、撃てばプロペラを壊してしまうということでした。もしプロペラの回転圏外から撃つように機関銃を取り付けると、射手であるパイロットの目線から離れることで、命中精度が下がってしまいます。連合軍では、曲芸飛行士のローラン・ギャロがこの問題にたいして改善策を提示します。それは単純なもので、プロペラのブレードの後ろに金属製の板を貼り付け、弾丸が当たっても壊れないようにするというものでした。ギャロは、跳弾がパイロットに当たらないように金属板の形も工夫し、試行錯誤を繰り返して、一定量の射撃を行うと、プロペラがゆるみ、最後には外れてしまうものの、飛行毎に取り替えるということでこの方式を完成させます。1915年2月、傘のような翼を持つ単葉機のモラン・ソルニエで出撃したギャロは、見事にドイツ軍機を撃墜し、軍用機の方向性を完全に変えてしまったのです。このプロペラを壊すことなく機関銃を撃てる連合軍機の出現は、ドイツ軍に大きな脅威を与えました。その年の4月に、燃料パイプの破損でギャロのモラン・ソルニエが塹壕線のドイツ支配領域側に不時着したことは、ドイツにとってまさに天の恵みでした。ギャロは、ドイツ軍に機体が捕獲されることを恐れて、破壊しようと試みますが手遅れした。ドイツ軍は、それを航空機設計家であるアントニー・フォッカーに見せたのです。それから程なくして、フォッカーは、プロペラの真後ろに機関銃を取り付けて、ブレードに弾丸が触れることなく、プロペラの回転圏内から撃てる装置を発明しました。こうして新装置とシュパンダウ7.92_機関銃を装備した新しい戦闘機、”フォーッカー・アインデッカー”が戦場に現れ、「フォッカーの懲罰」がはじまったのです。

(続く)


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