序文




戦争や革命は人類の歩みの足取りを示し、
”歴史”の移り変わりをもたらす契機を生み出すものといえよう。

戦争の存在を許容できないとする者も、
それが存在したこと、また戦争が過去においては人類の技術の発展を刺激し、
進歩を促したことは否定できないであろう。

古代において戦争は常態であり、”生産的な破壊”として重視され、
特に遊牧民にとっては、不足する物資を補給する生活の糧であった。

敵対する国家を滅ぼすことは、経済的な独占や富の巨大な集中をうみ、
そして統合された大帝国の出現は、物資の円滑な流通を可能にした。

また、神聖な存在に権威を裏付けされた”王”は、
その威厳と力を誇示するために好んで戦争を起こし、
この過程で異文化との衝突と融合が起きた。

一方、実際の戦闘で手を血に染めるものたちは、
暗黒の時代においては、戦争を神聖化し、勇気を競った。

しかし、このような時代が永久には続かなかった。

人類の人口は爆発的に増加していき、
増えすぎた人口は流動し、より利潤のある土地を目指し争った。

人口の増加は戦争の規模をも拡大した。

大規模な戦争では、もはや個人の勇気に何の敬意も払われなかった。

戦争の発展は、勝利よりも殺戮を重視していった。

人類がもっとも効率のよい殺人システムを考案するまでには、
それほど時間はかからなかった。

現代の戦闘では、そのことで何の利潤も得ることはできない。

もはや戦争は不要であり、
後には、恨みと憎しみの紛争だけが残った・・・・・・・。




ではなぜ今、戦争の歴史について語ろうとするのか?

それは戦争がもっとも”人間”を如実に映し出すからだ。

戦争(広義で闘争も含めて)は、人間の真の姿を映す鏡である。

極限状態や緊迫した状況こそ、その人間の本質が垣間見れる瞬間であるのだ。

私は戦争を通して、”人間”(歴史上の人物)を語りたい。

その人物をすこしでも理解し、近づいてみたいのである。


私はここで”歴史”と”人間”を語りたいと思う。

もちろん、きれいごとばかりではない、如何なる歪曲も修正も許さない、
”HiStory”、真実の物語をである。

”歴史”は真の事実のみで構成される、厳格なものである。

そこには目を背けたくなる事実もあろうし、感動てきな事実もあるだろう。

血湧き肉踊る冒険もあるし、涙の悲劇もある。

しかしそれが、歴史であり、
歴史は、我々が今知っている、もしくは信じているものだけであるとも限らな い。

事実はたとえ我々が知らなくとも、しっかりと歴史の中にある。

そう、シュリーマンが土の中からトロイの遺跡を見つけたように!


そして私は、その”歴史”を探求して行きたい。





(1997年3月27日、筆者・兒玉)